有名なパリの地下鉄。いまその構内ではフランスの若きミュージシャンたちが、ライヴで生の音を響かせています。しかし、乗車したくても張りめぐらされたパリのメトロポリタンにはナビゲーターが必要なのも事実。このコーナーではシャンソンの水先案内人を大野修平がつとめます。
この「ディスクガイド」は、サーバーの容量の関係で6ヶ月ごとに削除いたしますので、必要な方はご自分で保存してください。(管理人)
 
 
テット・レッド
「ベスト・オブ・テット・レッド」

 WEAジャパン WPCR-10968

〈曲目〉

  1. アン・プティッテール/小さなメロディー
  2. バ・カルティエ(危険地帯)
  3. ル・ファール/ヘッドライト
  4. ジノ
  5. レ・パピエ/紙
  6. マヌエラ
  7. レ・ブーケ/花束
  8. ル・クール・ア・サ・メモワール/心は思い出を抱く
  9. ル・テアトル・デ・ポワソン/魚たちの劇場
  10. ラムール・トンブ・デ・ニュ/雲から降って来た愛
  11. エミリー
  12. サン・ヴァンサン
  13. ギニョル/操り人形
  14. モン・スリップ
  15. トランペット・ソング
  16. レ・ルナール
  17. ジネット
   

 WEAジャパンから5月に、ジャック・イジュラン「異教徒たちのパラダイス」(WPCR-10967)、トマ・フェルセン「魚の日」(WPCR-10965)、同じくトマ・フェルセン「キャトル」(WPCR-10966:このアルバム、1999年に第52回アカデミー・シャルル・クログランプリを獲得している)とともにリリースされたもの。
 紹介がこんなに遅れたのには、えらく個人的な理由がある。
 ひとつは当サイト立ち上げに向けて、準備に時間を取られたこと。もうひとつは、このアルバムのライナーノーツを書く仕事を引き受けて、もう、数え切れないほど聴いてしまったので、ちょいと食傷気味になっていたこと。
 だから、ぜひ本アルバムを買って、なかに入っている解説を読んでいただきたい、というのが本音。勢いよく、ちゃんと書いてますから。
とはいえ、いずれにしても、怠慢のそしりは免れられまい。(WEAジャパンの田中さん、そして読者のみなさん、どうもすみません…。)

 ライナーノーツに書いたことを繰り返すのも能がない感じだけれど、やはり強調しておかなければならないことがある。
 よく、「いまのフランスに、シャンソンなんてもうないよ」なんて言ってのける人がいる。僕に言わせればそんなのは暴言だ。そりゃ、フレエルやミスタンゲット、モーリス・シュヴァリエやイヴ・モンタンみたいなタイプと同等の歌手はいないだろう。
 だからといって、シャンソン・フランセーズの精神までが消え去ってしまったということにはならない。それは時代とともに姿形を変え、身にまとう衣を替えていまも息づいているのだ。それを感知できないないのは、その人の感性の問題だ。鈍いのか、動脈硬化をきたしているのか、まあ、そのどちらかじゃないだろうか。

 いい例がこのグループ、テット・レッド Tetes Raides だ。
 一見したところ、ロックグループに思える。ところが、それだけではない。ヴォーカルのクリスティアン・オリヴィエはアコーディオンを弾きながら歌い、そのステージは庶民的なダンスパーティー、バル・ミュゼット風の趣も兼ね備えている。ここに、シャンソン・フランセーズとの接点があると言える。

 それに、注目すべきは彼の書く歌詞だ。
 ジノは鳥を売るのが商売だが、ある日、逃げられてしまう。「この界隈の鳥たちの仲間になる/彼らはありとあらゆる籠の鍵を持っているんだ」(4.「ジノ」)なんてプレヴェールを思わせる。
 「ル・クール・ア・サ・メモワール/心は思い出を抱く」(8)のこのフレーズもいい。「ギターの調べに涙しよう/俺たちの人生から/立ち去って行った人たちの/思い出に涙しよう/何ひとつ変えることも/誰ひとり歌うこともない/彼らの定めをを思い/拳をにぎりしめて」。

 ロベール・デスノスの作品から借りて来た、幻想的なユーモアもちりばめられている。「ラムール・トンブ・デ・ニュ/雲から降って来た愛」(10)。中世のある土曜日、サバト(夜宴)に行こうと箒に乗って飛んでいた魔女が雲(nues ニュ)から落ちて来る。地上に落ちた魔女は“全裸”(toute nue トゥット・ニュ)。“ニュ”というタンゴの響きで遊んでいる。
 「エミリー」(11)はシャンソン・レアリストの世界だ。船乗りたちの集まるカフェが舞台。ピルゼンの黒ビールをあおり続ける船長がカウンターにいる。エミリーという女性はついに最後まで登場しない。でも、彼は現われないエミリーを待っているのだろう。時折、死を思いやりながら…。

 ある夜、ナイフが部屋から通りに出て殺人を犯す、と始まる「トランペット・ソング」(15)はシュルレアリスム風のタッチがきいている。ここにもトランペットなんか出て来ない。ボリス・ヴィアンが「北京の秋」という小説を書いた時、内容が北京とも秋とも関係ないからこのタイトルを選んだ、というエピソード を思い出す。

 遠く、16世紀に奇書「ガルガンチュア物語」を著したフランソワ・ラブレーが持ち合わせていたユーモアに満ちた遊び心。20世紀に入ってアルフレッド・ジャリががそれを掘り起こし、マルセル・デュシャンやマン・レイなどの芸術家、シュルレアリスムの詩人アンドレ・ブルトンやロベール・デスノス、ボリス・ヴィアン、ジャック・プレヴェールに受け継がれた。
 物事をあるがままにとらえず、他の見方をする、というこの態度は多少ヘソ曲がりにも通じるけれど、別に、世をすねて斜に構えることを意味してはいない。楽しく、面白く、時にはアイロニカルに目の前の現象をとらえ、表現してみせるだけだ。
 音楽の世界では、セルジュ・ゲンズブール、ボビー・ラポワント、ピエール・ルーキからMCソラーに至るまで見受けられる傾向で、ここに聴くテット・レッドもそれを持っているというわけだ。
 この精神の傾向をジャリやヴィアンの使った言葉を借りれば、パタフィジックということになる。
 もともとフランス人には他人と異なっていることを喜んだり、尊んだりする気持ちの働きがあるから、パタフィジックはそれを拡張したものと考えていいだろう。

 シャンソン・フランセーズやバル・ミュゼットとロックが混在するテット・レッドに1996年から、アコーディオニストのジャン・コルティが欠かせないメンバーとして加わっている。これまた素敵な融合だ。
 シャンソン・フランセーズに未来がない、なんてこうした動きひとつ見ても言えないだろう。