くつろいだ表情のアズナヴールがジャケットを飾る。なぜか目を伏せている。が、悲しみに打ちひしがれているとか、望みを失っている風でもない。悲しみのなかにもひと筋の光明を見つけ、喜びのなかに苦汁のひとしずくを味わってきた人だけが持つ穏やかな表情、とでも言おうか。人生を手放しに讃美するわけではないけれど、舌打ちしながら否定するのでもない。今年80歳を迎えるアズナヴールはその中間にいる。バックの色がグレーになっているのもそれを暗示するかのようだ。
ケースの裏を返すと、まっすぐにこちらを見つめた顔。普通ならこちらを表に使うところだろう。あえてそうしなかった理由は、曲を聴いているうちに何となく分るような気がしてくる。もちろん、憶測にしか過ぎないけれど。
せっかくだから両方の写真を掲げておこう。
前作に続いてアレンジを担当しているのは、ピアニストのイヴァン・カッサール。そこはかとない悲哀を感じさせるアズナヴールの声を、オーケストラ・サウンドの起用によって巧みに引き立てる。
どう抗ってみても逃れられない定めに身をさらす人間。冒頭に置かれたファド風の「リスボン」からアルバムは始まる。情熱と悲哀が漂う。
「別人」(3)ではスウィングしながら、ちょっぴり別な自分を演じてみることを歌う。楽しそうに聞こえる。役者としても活躍してきている彼だからこその着想だろうか。しかし、ラストの歌詞を見ると、やはり女性に振られそうな男の気持ちが述べられる。「アルコールのグラスとともに/私を置き去りにされ/きみを忘れることに酔いしれる/でも きみが去って行くなら/別人になるなんて 何になるだろう」。
次の「言葉」(4)では、「鋭利な言葉/押しつぶされる言葉」など、言葉の持つ様々な側面を挙げる。ルフランでは「言葉、言葉/いつでも言葉/言葉を警戒しなければならないだろう」と歌う。
続く「批評」(5)を聴くと、なぜ「言葉」がこの曲の直前に置かれたかが分る。明るく弾んだ曲調とは裏腹の気持ちが込められているからだ。デビュー当時からしばらくの間、アズナヴールの容姿や悪声に対してひどい批評が浴びせかけられた。「賛辞などひとつもなかった」と、昨年に発表した自伝にも書いている。心ない痛罵に彼は少なからず傷ついた。そのトラウマは長く心の底に沈殿することになった。それがいま、ジョークの態を装いながら反撃してみせたというところなのかもしれない。が、歯をむき出して反論しているわけではない。多くのファンを獲得している彼の自信に満ちた、勝利宣言とも受け取れる声が、曲終わりに聞かれる。
「要するに、観客だけが正しいのだ」。"En fin de compte,seul le public a raison."
無責任な批評、ためにするこき下ろしは害毒しかもたらさない。「玉に瑕」という言い方がある。「この瑕さえなければ、この玉はもっと輝くようになるのに」と指摘してあげるのが本当の批評だ、と大学時代に哲学の加藤武先生がおっしゃったことがある。この言葉はいまも僕の胸に残っている。対象にケチをつけるだけが能じゃない。認めるべき点ははっきりと認めた上での苦言でなければ、耳を傾けては貰えまい。さりとて、何でもかんでも褒めそやす、という態度も疑問なしとはしないけれども。
次の「私は旅する」(6)は、娘カティア・アズナヴールとのデュエット曲。人生の大半の旅を経験してきた父と、まだ目の前に遥かな旅路が広がっている娘の思いが交差する。ジャン=ピエール・ブールテール作曲による、親しみやすいメロディーが印象に残る。
続く「私は生きながらの死者」(7)には「意見の罪」というサブタイトルがついている。穏やかでない単語が並んでいる。あまりにもあけすけに作品のなかに自分の主張を込め過ぎた、ということなのだろうか。まるで存在を許されない者のようだと歌う。作曲はセルジュ・ラマに傑作を提供してきたイヴ・ジルベール。
ピアノの音だけでイントロが始まる「人生にめざめる」(10)。「愛が立ち現われる時 人は愛にめざめる」と静かに歌う。愛の詩人でもあるアズナヴールらしいフレーズが聞かれてほっとする。が、ここにはかつての燃え上がるような激しい愛は見当たらない。歌われているのは男女の愛とも、もっと広い人間的な愛とも受け止めることができそうだ。
アズナヴールの胸の奥にある炎はしかし、ブラッサンスが歌ったような「小さな栗をやっと4つ焼けるほど」ではないようだ。彼の過去、人生、愛はいまも燃え続けている。
ラストに置かれた「私の魂の炎のなかで」(12)を聴きながら、彼の創作意欲もまた燃え続けてほしいと心から思った。