♪「シャンソンを貴方に…」〜シャンソン情報TV番組オンエアのご案内〜
東京メトロポリタンテレビジョン(MXTV)・群馬テレビ(GTV)において毎回多彩なゲストをお迎えして見ごたえのある30分番組となっています。
[出演]芦野宏/小林力(p)他 [監修]大野修平
   
☆TOKYO MXTV⇒
10月2日(木) 21h00〜21h30 ゲスト:有光雅子
10月16日(木) 21h00〜21h30 再放送
11月6日(木) 21h00〜21h30 ゲスト:深緑夏代
11月20日(木) 21h00〜21h30 再放送
12月4日(木) 21h00〜21h30 2003年総集編
12月18日(木) 21h00〜21h30 再放送
  ☆群馬テレビ⇒
10月8日(水) 22h00〜22h30 ゲスト:有光雅子
10月15日(水) 22h00〜22h30 再放送
11月12日(水) 22h00〜22h30 ゲスト:深緑夏代
11月19日(水) 22h00〜22h30 再放送
12月10日(水) 22h00〜22h30 2003年総集編
12月17日(水) 22h00〜22h30 再放送
この「修平のひとりごと」は、2ヶ月ごとに削除いたしますので、必要な方はご自分で保存してください。(管理人)
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音楽についての世論調査が興味深い  12月5日(金)曇り

 

 職業柄というのか、習い性となったものか、頭のなかにシャンソン・フランセーズのメロディーが鳴っていることが多い。声こそ出さないけれど、歌詞を思い出しながらメロディーをなぞることもある。道を歩きながらであったり、電車などでの移動中であったり、時と場所を選ばずいつの間にかそうしてしまう。
 ところが、商店街に設置されたスピーカーからインストゥルメンタルの演奏が流れたり、山手線の高田馬場駅で「鉄腕アトム」のテーマが聞こえてきたりすると途端にそっちに引きずられてしまうことがある。そうなるともう、先ほどのメロディーはどこへやら。我ながら単純な頭脳だなぁ、と思ってしまう。

 昨日12月4日付の読売新聞朝刊に出ていた世論調査の結果が興味深い。音楽に関する調査で、「世代超えて 歌は楽し」という見出しがついている。11月15、16日に全国の有権者3000人を対象に行なわれたものだ。個別訪問面接聴取法というやり方で実施された。

 「あなたは、どういうきっかけで、曲を好きになることが多いですか」という質問がある。答えのトップは「テレビのドラマやCMで聞いて」が50.3%。「繁華街や店内で流れているのを聞いて」という答が10.1%となっている。僕の場合はそれで好きになるというよりは、単に引きずられてしまうだけなのだけれど、耳に留めるきっかけがBGMという点は共通しているなぁ。
 記事のなかで、社会学、ポピュラー音楽研究者の大西貢司・千葉大学、日本大学教授がそういう接し方を「環境型聴取」と名づけている。なるほど。
 ちなみに、「CD店で実物を見たり、試聴したりして」は9.5%。「友人などから教えられて」が9.7%と出た。いずれも音楽と積極的に関わるパターンとしては古典的とも言えるが、この数字は減少傾向を示しているんだろうか。

 「今の日本の音楽について、あなたが気になること」では、「世代を超えて楽しめる歌が少ない」が27.3%を占めて第1位。僕もそう感じている。社会が発展して価値観も多様になり、個人の好みが細分化していることが原因だろうか。35.2%だったのが「歌いにくい歌が増えている」。若い人たちには何でもない速いテンポの曲におじさんたちがついていくのは、たしかにシンドイもんねぇ。
 次いで多いのが「歌の流行のサイクルが速い」28.7%。レコード会社が低年齢層にターゲットを絞ったヒット曲作りを狙うためだろうか。お子ちゃまたちは飽きっぽいという特徴を持っているから、供給スピードを速めて次々に新曲を出すという戦略なのかもしれない。そんな傾向を決して歓迎しているわけではない、というリスナーの気持ちをこの数字から読み取ることができるように思う。
 「魅力のある新曲が少ない」21.7%。近頃、かつてのヒット曲がリメイクされ、受け入れられる傾向がある。昔の曲にはいいものが多いのもたしかだ。裏を返せば、いまいいと思える曲が少ないということなんだろう。
 さらに「実力のある歌手やミュージシャンが減っている」と答えた人が16.7%いることも見逃せない。過去の名曲にリスナーの目や耳が向くのは当然のことと言えそうだ。

 「好きな歌手」の項目でも面白い結果が出ている。上位5位までを引用してみよう。
1.美空ひばり82%(男25、女57)。2.北島三郎81%(男51、女30)。3.五木ひろし64%(男26、女38)。4.ビートルズ56%(男28、女28)。5.サザンオールスターズ47%(男21、女26)。
 ビートルズは40〜50歳代で最も高い支持率だという。僕もカラオケではビートルズの曲を歌うことが多いもんなぁ。僕たちの世代にとっては、やはりインパクトの強いアーティストたちなのだ。
 それ以外の上位を演歌・歌謡曲歌手が占めている。

 では「好きな音楽」は?。
 「歌謡曲、J-POP」が1位で53.7%。その他「ロック、ポップス」20.7%、「ジャズ」11.3%、「R&B、ヒップホップ」8.2%、「ラテン、ワールドミュージック」5.6%、「クラシック」18.7%、「演歌」37.8%などとなっている。数字だけで見れば、「歌謡曲、J-POP」「演歌」の人気が高いことが分る。
 シャンソンは影も形も見えない。「ワールドミュージック」に繰り入れられているのかなぁ。いずれにしても頼りないものだ。やはりマイナーなんだろうか。

 目をフランスに転じてみよう。1998年11月24日から26日、12月18日から22日にかけて実施された「フランス人の音楽嗜好」《Les gouts musicaux des Francais》という調査がある。こちらも質問者が各家庭を訪ねている。対象は18歳以上、2000人。フランスの音楽著作権協会SACEM (サセム)が世論調査機関SOFRES(ソフレス)に依頼して行なったもの。

 「好きな音楽」では「シャンソン・フランセーズ」がトップで41%。以下、「クラシック」19%、「ロック、ポップス」14%、「ジャズ」4%、「ラップ、レゲエ、ヒップホップ」3%などとなっている。
 「好きな歌手」を見ると―
 男性歌手のトップはミッシェル・サルドゥー Michel Sardou 12%。続いてジャック・ブレル Jacques Brel 8%、ジョニー・アリデイ Johnny Hallyday 6%、ジャン=ジャック・ゴールドマン Jean-Jacques Goldman 6%が同数。フローラン・パニー Florent Pagny 5%。その後を追うのがジョルジュ・ブラッサンス Georges Brassens 、シャルル・アズナヴール Charles Aznavour、 フランシス・カブレル Francis Cabrel がそれぞれ4%。

 女性歌手の結果は次のとおり。第1位セリーヌ・ディオン Celine Dion 13%、ララ・ファビアン Lara Fabian、 エディット・ピアフ Edith Piafがともに4%。
次いでミレイユ・マティユー Mireille Mathieu 3%、パトリシア・カース Patricia Kaas と バルバラ Barbara が同数の2%、以下ダリダ Dalida、ナナ・ムスクーリ Nana Mouscouri、シルヴィ・ヴァルタン Sylvie Vartan、アクセル・レッド Axelle Red、ミシェール・トール Michele Torr、ヴェロニク・サンソン Veronique Sanson がいずれも1%となっている。

 日仏の調査結果を見ると、「好きな音楽」のトップにはそれぞれ自国製のものが挙がっている。妥当な答だと思う。歌謡曲・演歌がそのままシャンソン・フランセーズとイコールとは言えないけれど、「好きな歌手」には日仏ともに実力派が顔を揃えているのが分る。

 質問事項は読売新聞社の調査の方がきめ細かい印象を受ける。というのも、「あなたが口ずさめる童謡は」という項目まであって、音楽や歌を通しての文化の伝承にまで目配りが行き届いているから。
 その結果はこうだった。「赤とんぼ」87.7%、「ふるさと」75.6%、「赤い靴」66.1%、「おぼろ月夜」49.4%、「浜辺の歌」43.4%、「荒城の月」66.9%。幼い頃に聞き覚え、歌った童謡がいつまでも心に残っていることがうかがわれる。とはいえ、「どれも歌えない」と答えた人が4%いたという事実も見据えておかなければならない。

 上記のような童謡を聴いて育った僕が、いつしかシャンソン・フランセーズが好きになっていた。考えてみれば不思議なことでもあり、面白いことだなぁ。
 童謡を口ずさむことのできる人が多いのを知って嬉しい。そうした文化的なルーツは大切にしたい。それを否定して他国の音楽だけに埋没するっていうのは、単なるかぶれに堕することになるように思えるからだ。
 読売新聞社のこの調査は、音楽を通していろいろなことを考えるいいきっかけを与えてくれている。

   


   

「魂は効率化できない」  12月4日(木) 曇り

 

 肩肘張ることなく、自分の信じるところを語る姿が強く印象に残った。
 新しいレコード会社を立ち上げた丸山茂男さんの言葉には静かな、しかし熱い信念が感じられる。テレビ東京の番組『ガイアの夜明け』(12月2日放送)を見てそう思った。

 丸山さんはEPIC・ソニーの創立メンバーのひとり。同社が設立25周年を迎えた今年2月22日・23日、記念のライヴが行なわれた。所属アーティストたちが顔を揃え、熱っぽい演奏を繰り広げる様子が流れた。ライヴが終わりに近づいた頃、ステージから佐野元春が丸山さんを紹介する。会場内にいた同氏はややはにかむように、嬉しさを隠さずマイクを握って感謝の言葉を述べていた。

 もともと丸山さんはCBSソニーの社員だった。1968年入社、と番組で言っていたと記憶する。ついでEPIC・ソニーを経て、ソニー・ミュージックエンタテインメント(SME)社長と輝かしい道を歩んで来られた。その経歴をかなぐり捨てるかのように、新会社をスタートさせたのはなぜか。
 メジャーレーベルを率いて着実に成果を挙げ続けてきたことに飽きた、ということなのだろうか。そういう面もありそうだ。

 また、メジャーな会社になると何にも増して効率が優先される。CDの製作、宣伝、プロモーション、出来上がった自社製品ショップに売り込む営業部員など、それぞれ専門のセクションのスタッフが業務を分担して動く。1カ月に300アイテムをリリースするためには、こうしたシステムはたしかに効率的ではある。しかし反面、1枚のCDへの思い入れは薄くなる。番組で丸山さんは「どれが自分でいいと思う音楽なのか分らなくなる」と言っていた。
 音楽好きという原点に立ち戻って、本気で「これいいよ」と薦めることのできるアーティストの音楽をプロデュースしていきたい。日々のルーティンをこなすうちに、そうした思いが丸山さんのなかに募っていったようだ。

 2500人の社員を率いていた丸山さんはメジャーな日常に別れを告げ、あえて小さな会社を作ることを決意する。志を共にする人たちも集まってくる。同じ思いを抱く人が他社にもいたのだった。
 メジャーからマイナーへの転進。マイナーから始まってメジャーにのし上がることを目指す、というのはよく見かけるパターンだ。その逆を想像することはあっても、実践するのはなかなか容易ではないだろう。
 丸山さんの古巣ソニーがBMGと合併する、というニュースが駆けめぐった。巨大な会社がまたひとつ出現することになった。全世界的なレコード会社再編成の動きがまた一歩進んだわけだ。
 そうしたメジャーの動きに背を向ける丸山さんの行動は勇気があると思う。

 新会社の名前は247レコードというそうだ。メジャーなレコード会社が軒を連ねる国道246号、通称青山通りの裏手にオフィスを構えた。そこで247、というところが洒落が利いている。こうした遊び心っていいな、と思う。
 日本のロックグループやシンガーを担当する複数のレーベルが集まっている。各レーベルのトップは自ら20%を出資し、経営者としての責務を負うというから自ずと真剣にならざるを得ない。でも、各自が好きな音楽CDを作って売るという喜びは大きいだろう。

 同社ではアーティストの発掘からCD製作、プロモーションや営業活動までをすべて同じ人が担当する。メジャーのレコード会社では細分化されている仕事を自分でこなさなければならないのだ。製造から販売まで、言ってみれば手作りの仕事だ。
 丸山さんは沖縄のアーティストに目をつけた。ピッピ隊音楽部。放送でもチラッと彼らの「ニュース」という曲が流れた。「前向きじゃなくて、横向きの人生でいい」といった内容の歌だ。この歌詞に丸山さんはピンと来たという。まさに、彼自身の生き方そっくりに思える。若い人たちの発するメッセージに敏感に呼応する丸山さんは凄い。ピエール・バルーにも通じる、しなやかな感性の持ち主と言える。
 丸山さんは沖縄にレコーディングスタジオまで作ってしまった。熱の入れようが半端じゃないことが伝わってくる。

 作り手、送り手の側が心の底から「いい」と思うものでなければ、本気になって売る気も起こらないだろうということは察しがつく。
 惚れ込んだアーティストのCDだから、売り方にもひと工夫凝らす。その様子も紹介された。通常、CDは卸業者の手を経て小売店に納入される。ところがこの方式だと、なるべくロスを出さないよう安全を考慮した品揃えになりがちだ。売れ筋中心になるということだ。結果、どこのショップにも似たようなCDばかりが並んでしまう。ユーザーの好みは多種多様なのに…。

 そこで、丸山さんは卸業者を通さず、これぞと絞り込んだショップに直接に製品を売ることにした。インディーズはこの方式を取っているようだ。
 CDは本などと同様に再販商品で、売値が決められている。が、丸山さんはその慣習にこだわらない。価格はショップ任せにするというのだ。これまたメジャーでは前例がない、マイナーならではの決断だろう。番組では、大手小売店の代表格である新星堂の宮崎社長にじかに売り込む丸山さんの姿を映し出していた。

 ことほどさように、丸山さんはマイナーという語につきまとう、どちらかというとマイナスなイメージを吹き飛ばしてみせている。そこが何とも小気味いい。
 僕のようにシャンソン・フランセーズという、洋楽のなかではマイナーなジャンルの音楽が好きで、それを少しでも広めたいと思って仕事をしている身からすれば拍手を贈りたい気持ちだ。

 そりゃあ、CDがたくさん売れて多くの人に支持される方が、アーティストにとっても、レコード会社にとってもめでたいことに決まっている。が、良質のものが必ずしも大勢の人々に受け入れられるとは限らない。スタンダールが言い出したことだけれど、「幸福なる少数者」(彼はわざわざ英語を用いて"Happy few"と書いた)のための芸術作品だってあるのだ。
 メジャーの会社ではそうしたジャンルは「商売にならない」と切り捨てられる運命にある。大所帯を経営していくためには、それはそれでやむを得ないことだろうとは思う。

 マイナーであることを卑下する必要もないし、また開き直って唯我独尊的な態度を取るのもどうか、と僕自身は考えている。
 番組のなかで発せられた丸山さんの言葉が心に残った。
 「魂は効率化できない」。
 まさにそのとおりだと思う。だとすれば、自分の信じる道を誇りを持って歩き続ければそれでいいじゃないか。丸山さんの台詞に改めて勇気づけられている。

   


   

悲しみが胸を突き上げてくる  12月3日(水) 晴れ

 

 11月29日、イラクのティクリート南方で奥克彦・在英大使館参事官、井ノ上正盛・在イラク大使館三等書記官とジョルジース・スレイマーン・ズラ運転手が何者かによって殺害された。イラクの戦後復興に力を尽くそうとしておられた奥、井ノ上両氏のことを思うと悲しみが胸を突き上げてくる。
 三氏のご冥福を心からお祈り申し上げたい。

 奥参事官が71回にわたって書き続けられた「イラク便り」を、外務省ホームページ(http://www.mofa.go.jp/mofaj/)で読んでみた。全部を読み通してはいない。が、いくつか読んだ文章からも、イラクの人々のために役に立ちたいという同氏の真摯な思いが伝わってくる。

 遺稿となってしまった記録は、11月27日付「感謝祭とラマダン明けの休み」。暑かったイラクもすっかり冬の装いになってきている、とある。また、米陸軍第82空挺団の本拠地ラマーディで開かれたサンクス・ギヴィングデーの様子も報告されている。
 11月の第4木曜日である27日は、アメリカではサンクス・ギヴィングデー Thanks givinng day、収穫感謝祭。親戚などが集まって七面鳥やカボチャのパイを食べて祝う。イギリスを逃れて来たピューリタン(清教徒)たちがアメリカ大陸にたどり着き、初めての収穫を祝った1621年が起源とされる。
 この日はイスラム教徒にとっては、ラマダン明けの大祭(イード)だった。断食行を終え、こちらも親類縁者が寄り集まってご馳走に舌鼓を打つ習わしだ。
 キリスト教徒とイスラム教徒の祭りが偶然に重なったわけだ。その年に前者の理屈が後者を圧倒しようとしていることを、神はどうご覧になっているだろうか。

 誰が彼らを銃撃したのかまだ明らかになっていない。テロリストの犯行が疑われている。国連の報告書によると、テロ行為のやり方が8月以降にガラリと変わり、これにはアル・カイダの流入が大いに影響しているという。アメリカと協力関係にある国はどこであろうと敵視する彼らの考え方は偏狭としか思えない。
 金曜礼拝が行なわれていたナジャフのイマーム・アリー廟前で、自動車に搭載された爆弾により多くの死傷者が出た事件があった。ムハンマド・バーキル・アル・ハキームSCIRI(イラク・イスラム最高革命評議会)議長までがその犠牲になった。奥参事官は8月27日付の「イラク便り〜アヤトラ・ハキーム殺害さる〜」で次のように書いている。

自らの主張を満足させるために、他人の犠牲を厭わないという卑劣きわまる考え方に基づく行動です。

 そのとおりだと思う。味方であるはずの宗教指導者まで血祭りに挙げるテロリストの思考回路が、僕には理解できない。

 ナシリヤにあるイタリア国家警察部隊カラビニエリが使用していた建物が自動車爆弾テロに襲われ、18名のイタリア人と9名のイラク人が犠牲になった事件について書かれた「イラク便り〜テロとの闘いとは〜」(11月13日付)にも、テロに対する奥参事官の考えが示されている。
 この事件ではたまたま近くを通りかかった女子中学生4名も巻き添えになった。
 民家に囲まれた地区を襲うこうしたやり方を現地の人たちは「イラク人のやることではない」と言っていることを、同氏は伝える。そして「テロリストの放逐は我々全員の課題」と主張する。
 卑劣な行為を前にして一歩も退かない強い意志がにじんだ文章だ。

 奥参事官の「イラク便り」には楽しい文章もある。「バグダッドの南青山?」(7月22日付)や「イラクのパンは美味しい、安い」(11月19日付)では、市民生活に向ける普通の人のまなざしが感じられる。
 前者では、バグダッドでサダム・フセイン追放後に流行しているインターネット・カフェの盛況ぶりを語る。また、シティ・センターというファストフード店に実際に入っている。羊の肉をローストにし、ナイフで削ってパンに挟んで食べるシュワルマという中東の名物料理が1,750ディナール(約1米ドル)で売られていることを報告。普段着の外交官、といった一面も見せる。

 弾の当たらない高い所から抽象的な論を述べるのではなく、市井の人々の間を歩きまわって実情を調べながら、血の通った支援とは何かを模索し続けていた奥参事官、井ノ上書記官。労を厭わないその努力に深い敬意を表したい。

 現地情勢に通じた両氏を失ったいま、何をどのように行なうことがイラクの人々の意に適うのかを僕たちは真剣に考えなければならない。

   


   

変わりゆく「私は私」 12月2日

 

 この秋、シャンソン・フランセーズのヴェテランたちが元気だ。アンリ・サルヴァドール、ジュリエット・グレコ、シャルル・アズナヴール、3人ともニュー・アルバムをリリースしている。それぞれ86歳、76歳、そして来年80歳。衰えも引退の気配も感じさせない勢い。
 辛いこともあったはずだけれど、自分の道を見失うことなく、しっかりとした足取りで歩んで来たアーティストたち。立ち止まらず、いまなお前に進もうとする強い意志を持ち続けているところが凄い。

 グレコは1949年のデビュー時から、詩人ジャック・プレヴェールの作品「私は私」《Je suis comme je suis》を歌っている。作曲したのは「枯葉」と同じくジョゼフ・コスマ。このシャンソンのなかに次のような歌詞がある。

私は私
このとおりなの
(中略)
私を愛してくれる人を愛する
私の落ち度かしら
愛する相手が
そのつど違う男だとしても

Je suis comme je suis
(...)
J'aime celui qui m'aime
Est-ce ma faute a moi
Si ce n'est pas le meme
Que j'aime chaque fois

 いまならさほど驚くような内容ではないかもしれない。が、発表当時はこの思い切った歌詞に戸惑いや反発を覚えた人も少なくなかったという。
 それは措くとしよう。プレヴェールはこのシンプルな歌詞によって、グレコという自立した女性の姿を鮮やかに浮き彫りにしていると思う。

 グレコの出発点は恵まれていたと言えるだろう。第二次世界大戦後、新しい情報発信地だったサン=ジェルマン=デ=プレで人気を分け合っていた、ジャン=ポール・サルトルやプレヴェールから作品を提供されたのだから。

 サルトルと言えば“実存主義の法王”と呼ばれた存在。「人間とはあるところのものでなく、あらぬところのものである」と書いた。何やら禅問答みたいだけれど、強引に要約すれば「人間とはいまある姿のままでなく、常に変わってゆく存在である」ということになろう。
 誰も生まれたままの状態で生き続けはしない。成長し、何事かを試み、成功したり挫折したりを繰返しながら、昨日と違う自分になって毎日を生きてゆく。
 もともとフランスには個人主義が根強いから、実存主義はすんなり受け入れられたのだろう。

 実存主義はそうした人間のありのままの姿を認める立場だ。だから、グレコが歌うように、愛する相手が変わることがあっても何ら不思議はないことになる。
それが「私」という存在なのだから仕方ない。実際、彼女は「恋多き女」とも呼ばれていたっけ。

 再び、養老孟司さんの著書『バカの壁』のページを開いてみよう。第4章「万物流転、情報不変」がそうした問題を扱っている。
 日々いろいろなことが起きる。情報は世界を駆けめぐって伝えられる。そのなかで右往左往する人間は変わらない、と思っているのが現代人だと養老さんは言う。ところが違う、と続けて指摘する。変わるのは人間の方だ、というのだ。
 たしかに多様な事象は起きる。が、いったんそれが情報として伝えられると、情報そのものはもう固定されたものとなって変わらない。養老さんが例に挙げるのは週刊誌。毎週新しい号が出るけれど、そこに書かれた中身は1週間経っても同じままだ、と。

 それに比べて、「知る」ことを通して人間は変わる、と養老さんは説く。

知るということは、自分がガラッと変わることです。したがって、世界がまったく変わってしまう。見え方が変わってしまう。それが昨日までと殆ど同じ世界でも。(同書 p.60)

 何かを学んだり、新しい知識を身に着けたりした後、そのように感じられないだろうか。同じものを見てもこれまでとは違って見える。それは何かを知ることの喜びでもある。エデンの園でアダムとエヴァが食べたのは「知恵の木」の実ではなかったろうか。その結果、自分たちが裸であることに気づき、恥じらいの感情が心に生じた。明らかに、それまでの二人とは変わったのだ。

 こうして見てくると、人間が変わりながら生きてゆく存在であることを認めるのに不都合はない。昨日も引き合いに出した、養老さんによる脳の一次方程式 y=ax を思い出そう。何らかの入力情報 x に、脳のなかで a という係数をかけて出てきた結果、反応が y というあれだ。
 たとえば、日本の優秀な外交官2名がイラクで殺害されたという情報 x によって僕たちは何がしかの影響を受け、それに自分の係数 a をかけて「不快」だとか「怖い」といった反応を示すわけだ。

 人間関係はそれだけで終わってしまってはいけない。養老さんは他人の気持ちを分ることが大事だ、と述べる。「他人のことがわからなくて、生きられるわけがない」。(同書 p.70)
 社会は共通性の上に成り立っているのだから、個性だけを振りかざしていたらまともなコミュニケーションは保たれないというわけだ。

 ここで共感ということがにわかに浮かび上がる。あるひとつの感情なりコンセンサスを共有できなければ、社会生活も芸術活動も成立しないことは明らかだ。
 シャンソンだってそうだ。歌詞によって言い表わされている事柄が聴く者の心に何がしかの感情を呼び覚まし、歌手の訴えかけに呼応してゆくところに共感が生まれる。そこで自分はひとりぼっちじゃない、といったことを確認することもできる。
 「私は私」ではあるのだけれど、いまこの時を共に生きている他の人たちもまた、ひとりひとりかけがえのない「私」であるという事実を忘れてはなるまい。
 そんなことを知り、考えながら変わりゆく「私は私」を感じながら、今日も僕は生きている。

   


   

脳を心で見る?  12月1日(月) 雨

 

 一昨日の夜、長いTV番組を見た。タイトルも長い。『テレビ50年大型企画「生命38億年スペシャル人間とは何だ!?4、脳の奇跡…失われた愛を探す感動の旅」』。古舘伊知郎、養老孟司両氏のトークで進行してゆく人気シリーズの第4弾だ。

 解剖学者の養老さんは今年4月に刊行された『バカの壁』(新潮新書)の著者でもある。僕の関わっているジャンルとかけ離れている同氏の本は難しそうだなぁ、とこれまで何となく感じていた。
 「わかる」ということはそんなに簡単なことではない。ましてや得意でない分野の事柄ならなおさらだ。分らないことを前に呆然として佇む“バカ”である僕は、書名のインパクトの強さにつられて買ってみた。でも、読んでみたらなるほどと思わされる事柄が書かれている。あのTV番組を見る際にも参考になった。

 番組のキーワードは「失われた愛」。素直に泣いたり、笑ったりするという、ごく自然な感情。僕たちが日常生活のなかで忘れかけているそうしたものすべてを「失われた愛」と言い表わしたもののようだ。
 古い脳と言われる大脳辺縁系という部分が感情を司ることに注目。感情が生まれ出るメカニズムを科学的に明らかにしようという企画だった。

 前頭葉の働きは感情を抑制することで、人間に理性をもたらしたと言われる。番組では、バナナを前にしたチンパンジーに「待て」と命じると、食べたくても手を出さないという実験を見せた。
 欲望をコントロールするのが前頭葉というわけだ。脳のなかでもとても重要な部分と言える。一方で拡大する欲望を実現しようとする意志があり、他方ではそれを押しとどめるこの働きがあればこそ、人間はいまの繁栄を築くことができたのだろう。前者がアクセルなら、後者はブレーキに当たると言えるだろうか。どちらかだけでは、きっと困ったことになることは想像できる。

 前頭葉だけが大事なのではないことにも触れていた。
 扁桃体が危険や好悪を感じ取る役割を演じていることが紹介された。ここに異常をきたすと正常な判断ができなくなる。本来は怖がるはずの蛇をかじる小猿や、ホラー映画を見せても何の反応も見せないアメリカ人男性の姿が画面に登場した。この男性には、他人の表情が何を示しているかを読み取れない。他人の気持ちを察することもできず、それが離婚の原因にもなったという。

 好き嫌いで物事を判断してはいけない、とはよく言われることだ。が、この感情を行動の判断基準とすることは必ずしも悪いとは言えないようだ。
 養老さんの本『バカの壁』には、僕でも“分る”数学的な表現でこのへんの事情が語られている。「脳内の一次方程式」という項にある。
 脳に情報が入って来るのを入力、その情報に対する反応が出力と養老さんは規定する。その時、脳への入力をx、出力をyとすると y=ax という一次方程式で表わせるという。養老さん自身の言葉を借りれば「何らかの入力情報 x に脳の中で a という係数をかけて出てきた結果、反応が y というモデルです」。(同書 p.31)

 問題はこの係数 a だ。これを養老さんは「現実の重み」と名づけている。y という何らかの反応があるのだからa が存在する、と見るわけだ。ところがたまに a=0 という人がいる。「この場合は、入力は何を入れても出力はない」。それは、a が何ら行動に影響を及ぼさないということだ。上記のアメリカ人男性にとっては、ホラー映画の映像を見るという入力に対して係数 a がゼロだったということになる。彼の場合は扁桃体に問題があったわけだけれど、健常者の場合、その人にとっては入力された情報が現実として受け止められなかった、ということを示すわけだ。したがって、出力としての y もゼロでしかない。何の反応も行動も見られない、ということだ。

 養老さんは具体的な係数 a=ゼロの例を挙げる。「おやじの説教を全然聞かない子供」。「彼に対する説教の中身は a=ゼロになっているから、いくら入力しても行動に影響がない」。(同書 p.34)
 これ、僕にも身に覚えがあるのでよく分る。親父、お袋の言うことを聞かないガキだったからなぁ。
 それは措くとして、係数 a には好き、嫌いという感情が関わってくる。自分にとって「心地良い=好きなこと」には耳を貸すけれど、「心地良くない=嫌いなこと」は無視してしまう。それは感情で動いているということに他ならないだろう。ビジネスに私情は禁物とは言いながら、好き嫌いの感情をまったく拭い去ることは難しいんじゃないだろうか、実際のところ。

 a=ゼロは困りものだけれど、その逆もまた扱いにくい。養老さんによるとそれは a=無限大と表わされる。代表例は原理主義だ、という。
 「この場合は、ある情報、信条がその人にとって絶対のものになる」。宗教指導者の言葉や教えが絶対的なものであり、それが人の行動のすべてを支配することになってしまう。

 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という宗教を信ずる人々が世界の約3分の2を占めている。いずれも一神教だ。唯一の神しか認めない。いまイラクで起きていることは、イスラム教とキリスト教という二つの原理主義の衝突と見ることができる。どちらかが他を倒すまで戦うなんてやめてほしいものだが…。そのことの愚をサルヴァトーレ・アダモが「摩天楼」《Gratte-ciel》というシャンソンのなかで歌っていたのを思い出す。
 原理主義を信奉する人たちには、前頭葉をしっかり働かせてほしいところだ。

 番組では個性豊かな天才たちも紹介された。サヴァン症候群と呼ばれる人たちは、驚くべき記憶力の持ち主だ。 アメリカ・ユタ州に住む男性キム・ピークさんは映画『レインマン』のモデルになった人物。彼の頭には8000冊分の本の中身がすべて記憶されているという。濫読、卒読、積読を得意技とする僕など恥じ入るばかりだ。

 また、感動的だったのはアマゾンに住む先住民ヤノマミ族の暮らしぶりだ。
 「ヤノマミ」とは彼らの言葉で「人間そのもの」を意味するそうだ。僕たちのような文明生活を営む者を、彼らは「ナブ」すなわち「人間の反対」あるいは「人間以下」と呼ぶのだという。その暮らしを画面で見るうちに「そうかもしれないな」とちょっと思った。

 村人全員がシャボノと呼ばれる円形の巨大な集合住宅に住む。狩りや採集で暮らしている。彼らは天衣無縫とも言うべき生き方を見せてくれる。大人が泥を互いの身体にこすりつけ合って戯れる。川に行ってその泥を落とすのだが、たちまち水かけ遊びが始まってしまう。老若男女お構いなし。何とも無邪気。羨ましいほどだ。見ているだけでこちらも楽しくなってくる。
 女優・広瀬久実がこのヤノマミ族を訪ね、2週間余り生活を共にする。彼女が具合悪くなった時、ヤノマミの人たちはみんなで心配してくれる。
 祭りもみんなで大いに楽しむ。が、終幕になると、先頃死んだ子供を思って全員で号泣する。

 何て人間的なんだろう。ストレートに感情を表わしていながら、決して他人の気分を害することがない。都会ではこうしたことは失われてしまって久しい。
 番組は感情を司る脳の働きををつぶさに検討しながら、心の問題を提示していった。冷静で理性的な行動は尊重しなければならない。それと同時に、感情豊かな心の生活も大切だな、と改めて考えさせられた。
 脳を見つめることは、僕にとっては脳を心で見ることのようにも思えた。