♪「シャンソンを貴方に…」〜シャンソン情報TV番組オンエアのご案内〜
東京メトロポリタンテレビジョン(MXTV)・群馬テレビ(GTV)において毎回多彩なゲストをお迎えして見ごたえのある30分番組となっています。
[出演]芦野宏/小林力(p)他 [監修]大野修平
   
☆TOKYO MXTV⇒
10月2日(木) 21h00〜21h30 ゲスト:有光雅子
10月16日(木) 21h00〜21h30 再放送
11月6日(木) 21h00〜21h30 ゲスト:深緑夏代
11月20日(木) 21h00〜21h30 再放送
12月4日(木) 21h00〜21h30 2003年総集編
12月18日(木) 21h00〜21h30 再放送
  ☆群馬テレビ⇒
10月8日(水) 22h00〜22h30 ゲスト:有光雅子
10月15日(水) 22h00〜22h30 再放送
11月12日(水) 22h00〜22h30 ゲスト:深緑夏代
11月19日(水) 22h00〜22h30 再放送
12月10日(水) 22h00〜22h30 2003年総集編
12月17日(水) 22h00〜22h30 再放送
この「修平のひとりごと」は、2ヶ月ごとに削除いたしますので、必要な方はご自分で保存してください。(管理人)
バックナンバー→  11月 4日〜 10日〜 17日〜 25日〜  12月 1日〜 8日〜

忘れられない日付  12月19日(金) 晴れ

 

 昨日12月18日はジルベール・ベコーの命日。“ムッシュ10万ボルト”が僕たちの前から姿を消してから、もう3回目の冬がやって来た。2001年のこの日、僕は駅のキオスクへ行ってあらゆる新聞を買い込んで、ベコーの死を伝える各紙紙面に目を通した。一紙くらい、「あれは誤報でした。ジルベール・ベコーは元気です」という訂正記事が出ていないか、と空しく探したのだった。信じられない気持ちでいっぱいになっていた。徒労だった。
 居合わせたカミさんや娘が驚き呆れるのも顧みず、声を上げて泣いた。一日中、ベコーのシャンソンの数々を聴きまくった。たくさんの思い出が次々と脳裡に浮かんだ。この世界に入って初めて通訳としてついた来日フランス人歌手のツアーがベコー一行だった。1978年のことだ。それから何度か彼らと一緒に仕事する機会に恵まれた。ステージの仕事の厳しさや楽しさを教わった。
 その日、涙は夜遅くになっても涸れなかった。忘れられない、悲しみの日付だ。

 今日12月19日はエディット・ピアフの誕生日。1915年のこの日、本名エディット・ジョヴァンナ・ガシオンという女の子がこの世にやって来たのだった。
 この日をこんなに晴れ晴れとした気分で迎えられるとは想像もしていなかった。
 東芝EMIからリリースされるエディット・ピアフのベスト盤のライナー・ノーツを、今朝ほど書き上げることができたのだ。偶然に設定された締め切りではあるけれど、彼女の誕生日が締め切りと重なったことを正直喜んでいる。推敲を繰返した後、朝一番にメールで送稿した。間に合ってほんとによかった。
 「袖擦れ合うも他生の縁」と言うけれど、「シャンソン・フランセーズの貴婦人」と呼ばれた偉大なる歌手ピアフとの何がしかのつながりを(勝手に)感じる。
 今日という日も、忘れられない日付となった。

 因縁話めいたことを書く。日付をめぐって、どうも人智の及ばない力が働いているように思えてならない。
 幼い頃、母からよく聞かされたことがある。母の母(すなわち僕の母方の祖母)が亡くなったのが11月22日で、僕が生まれたのは11月23日。「うちの母が自分の命日と一緒じゃ可哀そうだと思ってずらしてくれたのよ」。母はそう言ったものだ。ところが、うちの娘の場合は違う。彼女は僕の父方の祖母の命日である8月26日に生まれているのだ。
 他にも二、三聞いたところ、似たようなことがあるという話だった。もちろん、科学的に実証できるわけじゃない。でも、この世を去った人たちの思いが日々を生きる僕たちに何らかの影響を与えるということはない、と言い切ることもできないんじゃないだろうか。故人と僕たちとの心の交流というものは、この世にいるかいないかということにかかわらず続いてゆくのかもしれない。

 心を尽くして愛したボクシングの世界チャンピオンだったマルセル・セルダンが飛行機事故で帰らぬ人となった後、ピアフは交霊術に耽った。愛するマルセルと何とかつながりを確保したかったのだそうだ。彼女のそうした思いを単に非科学的だ、と笑うことは僕にはできないな。

 それはさて措くとして、命日と誕生日が一日違いというジルベール・ベコーとエディット・ピアフ。イヴ・モンタンやシャルル・アズナヴール、ジョルジュ・ムスタキ、シャルル・デュモンなどと同じように、ベコーもピアフに才能を認められ支援を受けたのだった。
 1993年に発表されたCD《Une vie comme un roman》(BMG-74321117382)はベコーのこれまでの人生を振り返り、芝居仕立てに構成されたもの。アルバム・タイトルを直訳すれば『小説みたいな人生』となる。フランス南部のトゥーロンに生まれた少年がパリに出て、オランピア劇場の観客を魅了するといったストーリーがある。合間にはアメリカでの体験も織り込まれている。

 3曲目が"Oh que Paris c'est loin"「おお パリは何て遠い」。歌詞を書いたのはベコーを取り巻く作詞家のひとり、ピエール・ドラノエ。このなかにピアフへの言及がある。

おお パリは何て素敵なんだ
ピアフにこう言われる時
「あなたのシャンソン いただくわ」

Oh! Paris c'est chouette
Quand une Piaf te dit
"Ta chanson je la prends"

 原詞では"une Piaf"「ひとりのピアフ」とある。実際のエディット・ピアフに限定しているというより、「ピアフのような大歌手」という風に言ったものだろう。が、実際にはベコーは"Quand Madame Piaf te dit"「マダム・ピアフがおまえに言う時」と歌っている。自分を引き立ててくれた恩人への心遣いが垣間見えるように思える。


  Becaud《Une vie comme un roman》

 全体にアメリカの映画音楽にも通じるような、ジャジーで大がかりなサウンドが際立ったアルバムという印象を受ける。ピアニストはベルナール・アルカディオ。彼は去年のアンリ・サルヴァドール来日公演の際にもピアノを弾いていた。今年はポール・モーリアオーケストラ公演のために再来日している。
 時はめぐり、一世を風靡したアーティストたちがステージを去った後にも彼らと一緒に演奏、伴奏したミュージシャンたちは活動を続けている。彼らが肌で知った素晴らしいシャンソンの数々を僕たちに伝えていってほしいと思う。

   


   

近頃巷に流行るもの…  12月18日(木)

 

 いろいろなものが巷に流行る。流行るものはいつか廃れてゆく。不易と流行はいつの世にも混在して立ち現われ、人を楽しませたり、眉をひそめさせたり。有為転変は世の習い。ゆく川の流れは絶えずして云々…。

 今年の「新語・流行語大賞」に選ばれるんじゃないかな、と思っていたらやっぱりそうなった言葉がある。
 野中広務さんの「毒まんじゅう」、テツ and トモ「なんでだろう〜」、北川正恭さん(早稲田大学教授)の「マニフェスト」が年間大賞に決まった。硬いものから柔らかいものまで、人々の口に上ることが多かった言葉たち。年の暮に改めて眺めてみると、やはり今年の世相を映しているんだなぁ、と思わされる。これもまた師走の風景のひとつとなった感がある。

 「新語・流行語大賞」のトップテンにノミネートされた言葉たちにも、すっかりお馴染みになったものが顔を揃えている。
 “ダメ虎”と言われて久しい阪神タイガースをリーグ優勝に導いた星野仙一監督の「勝ちたいんや」。

 特に誰と個人名を特定しない(というかできない?)「該当者なし」部門では、「コメ泥棒」。不作が原因なんだろうか、世知辛いというか利に敏いというのか、カネでなくモノそのものを盗む行為が横行した。被害に遭ったのは米に限らずメロン、ナシ、ブドウなどにも広がった。泥棒が流行るなんて、あまりいい傾向とは思えないなぁ。
 新型肺炎とも呼ばれる「SARS(Severe Acute Respiratory Syndrome:重症急性呼吸器症候群)」。これもまた嬉しくない流行だなぁ。

 解剖学者で東大名誉教授でもある養老孟司さんの著書のタイトルでもある「バカの壁」もあちこちで聞かれた言葉だった。「話せば分る」ということは必ずしも正しくない、むしろ分らないことが多い、という主張。
 人間、自分に理解できないことには目や耳を塞いでしまう場合がある。そんな時、相手の立場に対しても無関心になってしまう。「無関心は狼で きみは子羊」と、ジルベール・ベコーが「無関心」《L'indifference》というシャンソンで歌っていたことを思い出してもいいかもしれない。気をつけていないと、あっと言う間に無関心が僕たちの心に巣食ってしまう。

 やっぱり入った、と感じたのは「へぇ〜」。年間大賞には届かなかったものの、トップテン入りを果たした。フジテレビの人気番組「トリビアの泉」から。受賞者は番組を進行する高橋克実、八嶋智人の両名。
 放送のなかではどうでもいいような、実に瑣末な事柄(trivia)についての知識が紹介される。それをタモリを会長とする5人の品評会員が、感銘度に応じて「へぇ〜」ボタンを押して判断を下すという趣向。そのボタンを押した時に流れる「へぇ〜」の声が、何とも気の抜けた響きを放つ。聞いた途端に身体から力が抜けていくような感じ、と言えばいいだろうか。

 「ゴリラの血液型は全てB型である」とか、「時報の声の主は中村啓子さんという人である」といった、別に知らなくてもちっとも困らないけれど知ってみれば「なるほど」と思える知識が視聴者から寄せられる。
 積極的にひざを叩いて「そうか、そうだったのか!」と対応したくなるというよりは、まさに「へぇ〜」としか言葉を返せないような、細切れの雑学的な知識の数々。でも、面白い。

 雑学といえば思い出すことがある。
 高校時代の同級生にNという男がいた。静岡から東京に出て四ツ谷に下宿している身だった。僕たちは自宅から学校に通っていたので、親からの干渉を受けないで好きなように暮らしているように見えるNの境遇が羨ましかったものだ。

 ちょいとワルぶっていた僕たちは、高校3年生くらいから酒を飲んでいた。(ほんとはまずいけど、まぁ、時効でしょうねぇ)
 Nは四ツ谷の飲み屋を探索していて、「ホワイトホース・セラーというバーの豚のバラ肉の煮込みがうまい」なんて言っていた。俳優の故・藤村有弘さんの行きつけの店だったという。そういえば、カウンターの内側に入り込んでいた同氏を見かけたような覚えがある。

 Nは雑学的知識をいろいろと身に着けている奴だった。
 彼の親父さんはその昔ソ連(懐かしい国名ですなぁ)で暮らしたことがあるそうだ。とあるバーに入ってタバコをくわえると、そこにいた女性がマッチで火を点けてくれた。火が点いた。でも、まだその女性は親父さんの目を見つめてマッチを手にしている。そこで親父さん、「もう用は済んだ」とばかりにその火を吹き消してしまった。ところが、その行ないが彼女をがっかりさせてしまう。というのも、ご当地では女性が男にタバコの火を点けた後にもマッチの火を消さずにいるということは、男が気に入った印だったのだそうだ。

 この他にも、4センチ四方の紙切れで、用足しした後の尻を拭ける技なんていうのも得意げに語るのがNという男だった。そうした話を聞く度に、どうでもいいような細かな知識というものも、仕入れておくと酒の席での話題にはなるなぁ、と思ったものだ。そういう話をしていれば尊敬はされないにしても、座持ちにはなる。

 「トリビアの泉」もそうした雑学的知識が詰まっている。それを「へぇ〜」ボタンを押した回数で点数として評価を与える、というところがひとひねりあって面白い。
 玩具メーカーのバンダイがさっそく、その「へぇ〜」ボタンを商品化して1個1980円也で売り出した。商魂たくましいと言うべきか。ほしいような気もするけれど、わざわざ買うのももったいないなぁ、とも思ってしまうのはケチだからだろうか。

 何気なくネットを見て渡り歩いていたら、「トリビアの泉 リアルへぇボタンまとめページ」(http://www.dfnt.net/t/photo/column/he.shtml)というのが目についた。そこにあのボタンが出ている。実際に押してみると出る、出る、あの力が抜けるように頼りなげな声が。ダウンロードもできるようになっている。
 同じような考えを持つ人はいるものだ。TIMEOVERというハンドルネームを持つ人が作ったのはその名も「『へぇ〜』器」。同氏のサイトからダウンロードすることができる。(http://urawa.cool.ne.jp/timeover/pren.html)こちらはソフトを起動したらスペースキーを押すと、あの声が聞ける。
 いずれも1回押すと1ヘぇ〜が入り、20へぇ〜(満点)で赤くなる。リセットボタンもあって簡単に0へぇ〜に戻すことができる。

 「くだらない」と言ってしまえばそれまでだ。いいじゃないの、こういう遊び心。国民にまともな説得をしているとは思えない小泉さんが国会答弁したり、記者相手に口を開く度にこのボタンを押して(ただし、少なめに)、おちょくってみたくなる。
 反論するのもアホらしいという時に使えそうな“新へぇ〜器”が現われたというところだ。

   


   

この時期に…   12月17日(水)曇り

 

 時宜を得ていると言えばそうなのかなぁ、こんな葉書と案内を受け取って戸惑いを感じている。
 わが家の息子宛に届いた実物をご覧いただきたいので、写真を参考に供する。

 差出人はまぎれもなく自衛隊。しかし、不思議だ。どうしてうちの息子が美容師見習いを辞めてバイト暮らしで生計を立てながら、音楽の道を志していることを知ってるんだろう。
 いや、待てよ。自衛隊がほんとに彼の暮らしぶりを知っているんなら、両親がいるこの住所ではなく、彼女と同居しているアパートにこの葉書が行かなかったんだ?
 どうやら、そこまでは自衛隊もうちの息子の消息をつかんではいないということなんだろう。

 自衛隊のイラク派遣が論議の的になっている。自衛隊は誰がどこから見ても軍隊なんだから、まずは憲法第9条における整合性を保つために、そのことをきちんと国会や民間を含めて議論してから“派遣”なり“派兵”をするべきだと僕は考える。この点においては僕は原理主義者である。だってそうだろう、自分の行動規範を曖昧にしたままで支援もへったくれもありゃしないじゃないか。
 とはいえ、国際的なお手伝いが焦眉の急に迫っているいま、そんな議論はやっていられない、という意見もあるだろう。国会でこれまで正面切って憲法論議を避けて「有事法制」なんていう、小手先の議論しかやってこなかったことを棚に上げたまま、そういったアホなことを主張する輩に言いたいことは山ほどある。
 が、いまは議論を後まわしにしてそういう連中に百歩も千歩も譲ってやろう。
 想像で物を言うが、おそらくはわれらが小泉純一郎首相はジョージ・ブッシュ米大統領に「オーケー、オーケー」と、気前のいい約束手形を濫発してしまったんじゃないだろうか、「お金も出します、兵も出します」てな勢いで。どうせ自分の腹も痛まないし、血を流すこともないんだから、ブッシュに対して可愛いポチであること、すなわち日米同盟という枠組に従順である自分をアピールしたんじゃないのか。

 軍服を着た日本人が行くにせよ、平服の日本人が行くにせよ、小泉さんは世界に対し、イラクの普通の人々に対して自分の言葉で語りかけることをなぜしないんだろうか。僕たちには時に声を荒げて「イラク復興のため、人道支援のため」と説得しようとする小泉さん。その論理をなぜイラク国民に、アラブ諸国民にじかに訴えないのだろう。
 それができないほど、アメリカの顔色ばかりを窺わなければならないのか、僕たちは。

 それはともかく、「自衛隊に入らないか」という誘いの葉書と資料がうちの息子に来た。父親としては勘ぐってしまう、息子が可愛いくてたまらないから。
 政府はこんなアイディアをもっているんじゃないかと考えてしまうのだ。
 自衛隊員がイラクに派遣されることはスケジュールに書き込まれている。行けば犠牲者も出るだろう。丸腰の外交官、奥大使や井ノ上一等書記官でさえ殺されたんだから、軍服を着て鉄砲を持った自衛隊員がテロの標的になることは十分に考えられよう。

 で、隊員が犠牲になるとしたら人員を補充しなければならない。自衛隊あるいは防衛庁としてはそう考えたとしても不思議はない。だから、いまから交代要員を募集しておこう、という理屈も彼らのなかでは成り立つ。
 この家を離れ、いまは愛する女性のもとに身を寄せているわが息子がその穴埋めにされるのか。
 その前に、これから危険な仕事に向かわなければならない自衛隊員の安否を思うと、弱っちい親父として人事とは思えないのだ。

 「一銭五厘」の葉書で徴兵された時代とはいろいろな点で異なる現代だということは分っている。が、「リクルートする」=「募集する」(フランス語では"recruter" “ルクリュテ”)という言葉のもともとの意味は「徴兵する」ということだ。戦争を放棄したはずの日本がまたいつの日か、こんな葉書で若い命を妙な大義名分のために散らすような社会になってはいけないと僕は考えている。

   


   

人と会う楽しみ  12月16日(火) 晴れ

 

 サダム・フセイン元大統領が拘束されたニュースが14日、世界を駆けめぐった。
これですぐにイラクの混乱が収まるわけではないだろうけれど、事態が一歩前に進んだことは間違いない。
 早くもフセインは、アメリカが戦闘開始の口実にしていた大量破壊兵器の存在を否定している、と伝えられる。もしそれが本当なら、ブッシュ米大統領はどう言い返すのかねぇ。

 それはともかく、フセインはたったひとりで穴倉にいたところを発見された。独裁者の最後は孤独だ。これまで各地を転々としていたようだけれど、親身になって話し合える友人や仲間は実際にはいなかったのかもしれない。それはそうだろう、独裁者は他人から恐れられることはあっても、愛される存在ではないから。彼は恐怖で国民を治めていたわけだからね。それでも「サダムに血と魂を捧げる」と叫ぶ人たちもいるのはよく分らないなぁ。

 穴倉にひとり隠れ住むなんて、想像しただけでも気が滅入る。本を読んだり、音楽を聴いたり、物を書いたりする時にはひとりもいいもんだと思う。むしろそういう場合、孤独は大切だ。アンドレ・モーロワがゲーテの言葉を著書のなかで引用しているのを孫引きさせて貰おう。「心穏やかで、なすべきことが決まっているときには、孤独はいいものだ」。(中山真彦訳『私の生活技術』p.115 講談社 1978年) そのとおりだ。

 そうした孤独も悪くないけれど、それだけじゃつまらない。やはりいろんな人と会って話をしたいし、笑い合いたい。人懐こい性格というわけなんだろうな。だから、先週土曜日のように大勢の人たちが集まるパーティーはとても好きだ。賑やかな雰囲気のなかでお喋りを交わすということのうちには、何という楽しみがあることか。誰の顔もほころび、瞳は輝きに満ちている。そうした楽しい時間を分かち合っているということがまた、とてつもなく嬉しいのだ。

 わざわざ福岡から来てくださった深川さんや、静岡から参加された増田さんなど、久しぶりにお目にかかれた方たち。お元気で何よりだ。ウォーキングを趣味にしておられる増田さんは来年、ご自分のサイトをオープンされると聞いた。いまから楽しみだ。深川さんは元々シャンソンである「マイ・ウェイ」の日本語訳詞を続けておられる。これまでも何回となく書き直しており、ほとんどライフワークのように思える。それぞれに自分のテーマを見つけて人生をエンジョイなさっているのを知って嬉しくなる。

 昨日、朝の10時頃、電話のベルが鳴った。佐川清治さんからだった。エールフランス国営航空会社に永く勤務されていた佐川さんは、在職中から早川清至というペンネームでシャンソンのレコード(LPの時代だった)解説や対訳をされていた方だ。サルヴァトーレ・アダモやエンリコ・マシアスの歌詞カードで、よくお名前を拝見したものだ。いわば僕の仕事上の先達であり、人生の大先輩だ。
 その佐川さんが電話では「ボンジュール・メートル」("Bonjour maitre" 先生、こんにちは、といった意味)と話しかけてくださるのだから恐縮してしまう。軽い冗談であることは分っていても、「とんでもないことでございます」という気持ちになるのだ。

 フランス渡航の際にはいつもチケットのことでお世話になっている。この時期、来年度のエールフランスの手帳をくださる。たしか1994年以来だから、もう10年目。時の経つのはほんとに早い。
 先日お声をかけていただいていながら、僕の勝手な都合でお会いするのが延び延びになっていた。しかも、僕の携帯電話にロックがかかったままになるというアクシデントもあって、踏んだり蹴ったり。きっと携帯に連絡をくださっているはずなのに、お答えできないもどかしさ。今日こそメールを出そうと思いながら果たせず、ずるずると日を送ってしまった。
 そんな僕に愛想をつかすことなく、自宅に電話してくださった。感謝の言葉もないくらいだ。

 午後3時、新宿・小田急百貨店内の喫茶店でお目にかかった。いつもダンディな佐川さん。「今日は昼食にメキシコ料理を食べてきた」とおっしゃる。食後にメキシコ風コーヒーを注文したら、シナモンと黒砂糖が入っていたそうだ。どんな味なんだろう。
 佐川さんの話もいつも面白い。普段窺い知ることのできない航空業界の裏話などを聞くことが出来るからだ。先日もこんなことがあったという。
 日本の某有名俳優が出発時刻に間に合わなかった。撮影クルーや機材はみな揃っているのに、主役のその人だけが乗れないので騒ぎ出した。とはいえ、飛行機はそんなに待てるものではない。彼はひとり成田に取り残されてしまった、というわけ。その役者の名前を「本人の名誉のため」と言って明かさないところが、いかにも佐川さんらしい。

 実は昨日、もう1本電話を受けていた。佐川さんとの約束の場所に行くため、外出の支度をしているところにかかってきたのは三木原浩史さんからだった。『シャンソンの四季』『シャンソンはそよ風のように』『パリ旅物語 サン・シャルル街に雨が降る』(いずれも彩流社刊)の著者だ。用事があって東京にいらしたので、僕に時間があれば会いたいとおっしゃる。佐川さんの後なら、ということで午後4時に新宿でお会いする約束をした。

 三木原さんは神戸大学でフランス語を講義なさっている。わざわざ神戸から来られた方を粗末にはできない。会いたい、と強く念じればその人にきっと会えるというのが僕の信条だ。その反対に、もし僕にどうしても会いたいと望んでくださる方がいるなら、どうして断る理由があろう。

 お会いして、とても温厚なお人柄とお見受けした。僕がかつて三木原さんの著書について文章を書いたことをしきりに喜んでおられた。「いや大したことじゃありませんよ。シャンソンを大切に思って仕事をされている方のことは勝手に仲間のように思い、他の人に紹介したくなってしまうもんですから」。そうお答えした。
 僕には大学教師の生活は未知の分野。制度が変わるとかで、三木原さんたちは公務員でなくなるのだという。給料やボーナスのことなど、なかなか聞けない話もしてくださった。象牙の塔のなかで生きていくのも大変なようだ。
 本の話もした。『シャンソンの四季』はめでたく完売。『シャンソンはそよ風のように』は3割ほど残っているとか。『パリ旅物語 サン・シャルル街に雨が降る』も健闘しているらしい。

 ご自分の体験を見つめていくうちに、何がしかの感情が生まれる。それは1曲のシャンソンの歌詞、街角、旅先で知り合った人などに寄せられる愛着にも似た感情と言っていいかもしれない。穏やかな口調で語られる三木原さんの文章には独特のぬくもりが感じられる。そこが好きな読者も多いんだろうな。僕もそのひとりだけど。

 永年のおつき合いをいただいている佐川さんと、手紙などのやり取りはあったけれお会いしたのは初めての三木原さん。心楽しい時間を過ごせたことをありがたく思う。やっぱり、人と会って話すのは何とも素晴らしいものだ。満たされた思いで家路についた。

   


   

盛り上がった忘年会  12月15日(月) 曇り

 

 またもや楽しい土曜日の夕べを過ごした。
 一昨日13日は、銀座産経学園での講座「シャンソンのベル・エポック」の日。本年の最終講義となった。1年が過ぎるのがほんと早いなぁ、とつくづく思う。
 この講座では、パトリック・ブリュエルが2002年に発表したアルバム『アントゥル=ドゥー』《Entre-deux》で取り上げているシャンソンの数々を、オリジナルの歌詞のヴァージョンと聴き比べることを続けている。1回につき1曲ずつ、ゆっくりと時間をかけて味わってゆく。

 今月のテーマは「モンマルトルの丘」《La complainte de la Butte》。コラ・ヴォケールの名唱で知られるこの曲についてあれこれと解説を加えた。
 頼もしい助っ人が力添えしてくれた。フランス語教師をされている前原克彦さんだ。東京ヴァリエテ倶楽部の会員で、かっち君というハンドルネームで積極的に発言している。
 前原さんはパソコンを持参して銀座産経学園にあるTV受像機につなぎ、興味深いDVDをみんなで見られるように配慮してくださった。おかげでパトリック・ブリュエルが昨年にオランピア劇場で行なった公演『アントゥル=ドゥー』のライヴを楽しむことができた。

 「モンマルトルの丘」が挿入されたジャン・ルノワール監督映画『フレンチ・カンカン』まで用意してくださったのが、前原さんの配慮が細やかなところ。そう、あのキャバレ、ムーラン・ルージュの改装を物語るあの映画のなかで歌われたのが「モンマルトルの丘」だった。作詞はジャン・ルノワール自身、作曲したのはジョルジュ・ヴァン・パリス。
 ジャン・ギャバン扮するアンリ・ダングラール、フランソワーズ・アルヌールが可憐に演じるニニらに交じって、晴れて再開店したムーラン・ルージュで歌うメキシコ人女性歌手ローラ・デ・カストロ役のマリア・フェリックスが、このシャンソンを歌う。

 コラ・ヴォケールはこの女優に声だけを貸したのだった。コラの面差しを知っていてこのシーンを観ると、何となくちぐはぐな思いがする。どうしてこんなことになったんだろう。『コラ・ヴォケール』という本の著者、ジル・コスタはその事情をこう書き記している。
 ルノワール監督と作曲家ジョルジュ・ヴァン・パリスはコラを思い浮かべながらこのコンプラント(オリジナル・タイトルは「コンプラント・ド・ラ・ビュット」。コンプラントというのは嘆き歌のこと)を書いた。彼らはコラにこの歌をレコーディングさせた。
 が、当時のプロデューサーは聞く耳を持たず、蔭歌として南米出身の女性歌手かエディット・ピアフの声を使うことを望んだ。当時スターだったピアフが顔を出さずに歌うことなどはあり得ない、とヴァン・パリスはプロデューサーに説明した。その結果、コラが名前も出さずに声だけをあのイタリア女優に貸すことになった、という。(Gilles Costaz《Cora Vaucaire》ed. Seghers p.21)。
 著者のジル・コスタも書いているけれど、モンマルトルを歌うのになんでまた南米出身の女性歌手を起用しようと思ったんだろうか、そのプロデューサーは。エディット・ピアフもまず首を縦に振るとも思えないなぁ。
 まぁ、そんないきさつはあったけれど、コラの素晴らしい歌唱は残ることになった。

 講義ではパトリック・ブリュエルのオランピア公演の様子も流した。いろいろな年齢層の観客が、パトリックによって次々に歌われるかつての名作シャンソンに酔いしれる姿が映し出される。受講生の方たちにも、時代を超えて歌い継がれるシャンソン・フランセーズの良さを肌で感じていただけたのではないかと思う。

 いつものように脱線を繰り返しながら、講座は進んだ。コラの歌を聴きながら、そっと原詞を口ずさんでいる方も何名かいらした。そうした前向きの姿勢が何より嬉しい。そこで、僕が原詞を1行ずつ読み上げ、みんなでその後をついて発音して貰った。さらにもう一度コラのCDをかけて、彼女の歌に乗せるようにして同時に歌った。素敵なシャンソンを聴いているうちに自然と歌いたくなるなんて、講師としてはこの上ない喜びだ。素晴らしい受講生に恵まれたものだ、と実感する瞬間だ。

 本年最後の講座がめでたく終わった。その後は「さくらんぼの会」の忘年会が待っていた。今年の会場は新橋のアダムス。早瀬かず椰さんが経営する、一本芯の通ったシャンソンのライヴハウスだ。
 三々五々、銀座産経学園から歩いてアダムスへ。続々と人が集まってきて、比較的広い店内が狭く感じられるほどになる。講座にはお顔を見せていただけないけれど、この機会にわざわざ足を運んでくださる方々もいらっしゃる。嬉しいことだ。僕の教室にいい思い出をお持ちでなかったらきっと、出かけてやろうなんて思われないだろうから。

 いつものように亀井繁男さん、安井高明さんが幹事を務めてくださった。三越文化センターで始まったこの講座第1回目からの受講生だ。太田光弘さん、佐藤かよ子さんも第1期生で、お二人とも忘年会に参加してくださったのがまた嬉しい。乾杯に続いて、それぞれの近況報告をいただいた。教室で会えないみなさんもお元気で、人生を楽しんでいらっしゃることが分る。

 銀座産経学園でのもうひとつの講座「アン・フランセ(フランス語で)」の受講生の方たちも駆けつけてくださった。こちらはフランス語で歌おう、という趣旨の講座で、第三書房から発売された僕の本『シャンソンで覚えるフランス語―1』をテキストに使っている。小川さん、武者さん、板垣さん、富岡さん、砂生さんといた方たちのお顔を見ることができたのも嬉しかった。
 どちらの講座も僕にとってはやりがいのある、大切なものだ。通い続けてくださるみなさんに改めて心からお礼を申し上げたい。

 これまではこういう会の場合、僕はどこかのテーブルに着いて会の終わるまでそこを離れることはなかった。でも、それだと一部の人たちとしか話ができなくなってしまう。極端な話、「こんばんは」と「さようなら」しか言葉を交わさなかった、なんていう場合だってある。
 せっかくおいでいただいたのに、それでは申し訳ない。そう思って、自分から各テーブルにお邪魔してみなさんと話そうと決めた。

 午後7時を過ぎた頃から、参加者のみなさんのショータイムが始まる。年々、歌う人が増えているようだ。ピアニストの上北進さんが伴奏してくださり、それぞれに得意のレパートリーを披露。笑顔、声援、拍手喝采…。楽しさが一段と増す。
 中野仁子さんは1週間前の安井さんの歓零季パーティーの時と同じく、アダモの「橋の向こう側」を歌った。訳詞はこれまたわが講座の受講生、深味純子さん。日傘順子さんが歌ってくださったのは「毛皮のマリー」。アップテンポの曲が楽しさをさらにアップしてくれた。
 それにしても、どなたも場慣れした感じでマイクを握っていらした。僕の講座を休んでどこかで歌の練習にはげんでいらっしゃるんじゃないだろうか、なんてチラッと思ったりした。(もちろん、冗談)
 歌が出るごとにさらに会は盛り上がっていった。

 楽しい時間というものはあっと言う間に過ぎる。何度も体験していることだけれど、今回もまたそれを味わうことになった。始まった会は終わりを迎える。分りきったことではあるけれども、名残惜しい気持ちは抑え難い。
 予定時間を少し越えて閉会となる。でも早瀬さんは嫌な顔もせず、笑って許してくれた。来年もまたアダムスで忘年会をすることがその場で決まる。「さくらんぼの会」のいい雰囲気が早瀬さんにも伝わったようだ。

 このまま別れてしまうのも何だか寂しいので、二次会に流れることになった。早瀬さんから紹介して貰った中華料理店に行く。焼酎の水割りをやりながら、歓談は続いた。

 やがて二次会もはねた。後は帰るだけとなる。その日、僕は母の家に泊めて貰うことになっていた。前原さんのお住まいは神楽坂。母の家のある市ヶ谷薬王寺町からさほど遠くないので、タクシーで一緒に帰った。
 せっかくだから母にも会って貰うことにした。まだお祭り気分の余韻に浸っていたい。それにはひとりじゃつまらない。そんな気持ちだった。(前原さんが迷惑じゃなければいいんだけど。そんなこと言っても、もう遅いかな。)

 ワインを飲み直しながら話が弾んで、ずいぶん遅い時刻まで引き止めてしまった。午前1時をとっくに過ぎ、前原さんは夜道を帰って行った。建物の1階まで見送りに出た。楽しい一日だったなぁ、ほんとに。幸せな気分で母の家に戻った。