うっかりしていて気づかなかった。
前回の本稿で、1月26日付朝日新聞朝刊に拙著『哀愁と歓びのシャンソンの名曲20選』(中経出版)の広告が出たことを書いた。
ところが、地方にお住まいの読者から「こちらでは28日の朝刊で見た」とのメールをいただいた。
そうか、東京中心にものを考えているつもりはないんだけれども…。自分の迂闊さに気づかされた。
閑話休題(それはともかく)。
26日の同紙夕刊東京版文化・芸能欄に興味深い記事が載っていた。
見出しは「大物歌手また『最後の』公演?」。われらがシャルル・アズナヴールのほか、ジョアン・ジルベルト、ルチアーノ・パヴァロッティの写真が目を惹く。
「最後の」とか「さよなら」と題するリサイタルやコンサートがあることについて考察している。
アーティスト側にも招聘側にもそれぞれの都合があって、公演名に「最後の」という形容詞がつけられる事情を解き明かしてみせる。
たしかに、これは悩ましい話題ではある。
他のアーティストたちのことには触れまい。
アズナヴールに関しては2月1日から2週間にわたり、日本公演ツアー期間中に一行の通訳として仕事をする立場として僕なりに少し考えてみたい。なにしろ「ありがとう、さよなら日本公演」というタイトルだから。
昨年11月にパリでアズナヴールにインタヴューした際、この件を尋ねそびれてしまった。「徹子の部屋」収録の時も、ラウル・ブルトン社で単独インタヴューした時にもすこぶる元気で、てきぱきとした返事を聞かせてくれたものだから。
それに、1987年のパレ・デ・コングレ公演でも「私は引退しない」"Je ne ferai pas mes adieux" と歌っていたし、これまでのところそんな素振りも見せていなかったから。
2000年に行なわれたパレ・デ・コングレ公演にも「最後のツアー」"La derniere tournee" と銘打たれていた。手元にあるプログラムにもモレッティ描くアズナヴールの似顔絵の右上にそう書かれている。
2004年の公演プログラムにはその文字は見受けられない。代わりに「誕生日おめでとう、シャルル」"Bon anniversaire Charles" とある。このリサイタルの千秋楽がアズナヴール80歳の誕生日に当たっていたのだった。
普通の人ならば、80歳といえばまぁ、とっくに仕事を離れて悠々自適に暮らしていても不思議はない。だから、フランス人の多くが「もうアズナヴールはステージを去るのだろう」と思ったようだ。
そのあたりを突っ込んだジャーナリストがいる。ジャン=リュック・ヴァシュトハウゼン Jean-Luc Wachethausen 記者で、フィガロ紙2005年10月8日号の文化欄にインタヴュー記事が載った。
「引退は本当か、嘘か」と迫る同記者に、アズナヴールは巧みな答え方をしている。
「最後のツアー」"derniere tournee" という単語を人々が誤解している、というのだ。「私はノーマルなフランス語を話しているのに」と続く。
ここでフランス語のおさらいをしておきたい。
"dernier, 〜re" にはいくつかの意味がある。フランス語辞典《Le Robert Micro》を引いてみよう。
最初に出ているのは次の定義。「他のものすべての後にやって来るもので、その後には他のものがないこと」"Qui vient apres tous les autres, apres lequel il n'y en a pas d'autres."
もうひとつ。「現在の瞬間に最も近いもの」"Qui est le proche du moment present"。例として「去年」"l'an dernier" が挙げられている。
英語の"last" にも似たような事情がある。"last night" と言えば「昨夜」を指す。必ずしも「最後の」という意味とはならない。
個人的な意見だけれど、アズナヴールは後者のニュアンスで"derniere tournee" と自分のリサイタルのタイトルにかぶせたんじゃないだろうか。そこには彼一流の茶目っ気が発揮されていると思えるのだが。
引退公演を"adieux" (アディユー)と表現する。
何度も“アディユー”をしたシャンソン・フランセーズの大スターがいる。シャルル・トレネだ。 アズナヴールは「ティノ・ロッシは女性たちのアイドルだったけれど、トレネは私たち世代すべてのアイドルだった」と言っている。
そのトレネは1975年、オランピア劇場でさよなら公演を行なった。当時まだ62歳で、誰もがショックを受けた。
「まだいける」との呼び声も高かった。結局、フランス全土やヨーロッパ各地でさよなら公演をしてまわることになる。ほんとの終演となったのは79年11月、スイスでのことだった。
それほど元気一杯だったのに、トレネはなぜ引退を言い出したんだろうか。
リシャール・カナヴォ著『トレネ 自由の世紀』(Richard Canavo 《Trene Le siecle en liberte》Hidalgo Editeur, 1989)に興味深い記述がある。評論家ジャック・シャンセルに答えたものだ。
「アーティストたちは引っ込むことはないでしょう。彼らから身を引いてしまうのは観客の方なんです。だから先手を打って、引退を宣言してしまう方がいいんです。」(同書p.472)
同書のもう少し先にはさらにこうある。
「人々が拍手で私を慰めに来るなんてしてほしくないですね。私の使命はいつだってその反対だったんですから」。
含蓄のある言葉だと思う。
まぁ、いまのところ、シャルル・アズナヴールには引退という言葉は似つかわしくないように見える。ぜひご自分の目で来日公演のステージを観て確かめていただきたい。