Le temps des cerises

Paroles:Jean-Baptiste Clement
Musique:Antoine Renard

Quand nous chanterons (*)le temps des cerises
Et gai rossignoles et merles moqueur
Seront tous en fete
Les belles auront la folie en tete
Et les amoureux du soleil au coeur
Quand nous chanterons le temps des cerises
Sifflera bien mieux le merle moqueur

Mais il est bien court le temps des cerises
Ou l'on s'en va deux cueillir en revant
Des pendant d'oreille
Cerises d'amour aux robes pareilles
Tombant sous la feuille en gouttes de sang
Mais il est bien court le temps des cerises
Pendants de corail qu'on cueille en revant

Quand vous en serez au temps des cerises
Si vous avez peur le chagrin d'amour
Evitez les belles
Moi qui ne crains pas les peines cruelles
Je ne vivrai point sans souffir un jour
Quand vous en serez au temps des cerises
Vous aurez aussi les peines d'amour

J'aimerai toujours le temps des cerises
C'est de ce temps-la que je garde au coeur
Une plaie ouverte
Et dame Fortune en m'etant offerte
Ne pourra jamais fermer(**) ma douleur
J'aimerai toujours le temps des cerises
Et le souvenir que je garde au coeur

(*)nous en serons と歌う歌手もいる。
(**)calmer と歌う歌手もいる。

  

 対訳

 桜んぼの実る頃

作詞:ジャン=バティスト・クレマン
作曲:アントワーヌ・ルナール

桜んぼの実る頃に
陽気な夜鳴き鶯やまねつぐみは
みな浮かれ出す
美しい女たちは物狂おしい思いにとらわれ
恋人たちの心は明るく
桜んぼの実る頃に
まねつぐみはさらに上手にさえずる

けれど 桜んぼの実る頃は短い
二人連れ立って 夢見ながら
耳飾りを摘みに行く季節は
おそろいのドレスを着た恋の桜んぼが
血のしずくのように葉蔭に落ちている
けれど 桜んぼの実る頃は短い
夢見ながら珊瑚色の耳飾りを摘む季節は

恋の痛手が怖いのなら
美しい女たちを避けなさい
悲惨な苦しみを恐れない私は
一日たりとも苦しまずに生きることはない
桜んぼの実る頃に
あなたたちもまた 恋に苦しむことでしょう

私はいつまでも桜んぼの実る頃を愛する
あの時から この心には
開いたままの傷がある
幸運の女神が私に与えられても
この傷を癒すことはできないでしょう
いつまでも桜んぼの実る頃を愛する
そして 心のなかのあの思い出も


   

「桜んぼの実る頃」をめぐって

 ちょっと聴いただけでは、単なる甘い恋の歌のように感じられるけれども、このシャンソンはパリ・コミューンの悲痛な思い出と深く結びついている。

 パリ・コミューンは1871年に、パリの労働者たちが権力を握って樹立した、世界初の革命的自治政府だった。
 1871年3月28日、パリ市庁舎前でコミューン成立が宣言される。ところが、コミューン評議会は様々な革命派の寄り合い所帯だったため、内部対立も激しかった。それが、ヴェルサイユを本拠地とする国民議会軍につけ込む隙を与えてしまった。
 5月21日から28日にかけて、パリを包囲したヴェルサイユ軍によるコミューン連盟兵と一般市民の大量虐殺が行なわれた。これを“血の週間”"la semeine sanglante" と呼ぶ。
 コミューン軍はパリのあちこちにバリケードを築き、ヴェルサイユ軍に応戦していたが、徐々に追い詰められていく。
 詩人のジャン=バティスト・クレマンが20歳くらいの野戦病院付の看護婦、ルイーズと出会ったのは5月26日、第20区、フォンテーヌ・オ・ロワ通りのバリケードでのことだった。
 彼女は手に桜んぼの入った籠を携えていたという。何か役に立つことはないかとやって来たのだった。一同は彼女を敵から守れるかどうかわからない、と断ったが動こうとしなかった。ルイーズは少しも恐れず、かいがいしく負傷兵の手当てをしたのだった。クレマンの妻の証言によると、彼はその娘と再会したいと思い、住所を尋ねたそうだ。が、それは果たされなかった。彼女も犠牲者となってしまったから。

200人の連盟兵が死守していたペール・ラシェーズ墓地をヴェルサイユ軍が取り囲む。午後6時、墓地の門扉が大砲で打ち破られ、ヴェルサイユ軍はなだれ込み、墓石と墓石の間で白兵戦が繰り広げられる。
 やがて147人の連盟兵が捕虜となり、敷地内の北東にある壁の前で全員銃殺される。この壁は「連盟兵の壁」と呼ばれ、残されている。

 コミューンの評議員でもあったジャン=バティスト・クレマンは、1866年頃に「桜んぼの実る頃」の歌詞を3番まで書いていた。フォンテーヌ・オ・ロワ通りのバリケードで出会ったルイーズの姿に感銘を受けて、彼は4番のクゥプレを書き足した。そのなかにある「あの時から この心には/開いたままの傷がある」とは、2ヵ月で幕を閉じたパリ・コミューンのこと、そしてあの虐殺を指している。
 このシャンソンは次の献辞とともに彼女に捧げられた。
 「1871年5月28日日曜日、フォンテーヌ・オ・ロワ通りの看護婦,勇敢なる市民ルイーズに」"A la vaillannte cityenne Louise, l'ambulanciere de la rue Fontaine-au-Roi le dimanche 28 mai 1871."

 ペール・ラシェーズ墓地「連盟兵の壁」の真正面、ちょっと小高くなった所にジャン=バティスト・クレマンの墓がある。いつまでも壁を見守っているかのようなその墓石には、作り物の桜んぼがそっと添えられている。

「桜んぼの実る頃」を作詞した、
ジャン=バティスト・クレマンの墓
(ペール・ラシェーズ墓地)
この真向かいに「連盟兵の壁」がある。