見つけたっ「アン、ポン、タン」!  1月8日(金)
2010/01/08
〔写真:それぞれの町の紋章 左からアン Ham、 ポン Pons、タン Thann〕


 前回、ざっとネットサーフィンをしただけではアン、ポン、タンというフランスの町を見つけることができなかった。
 分らないままにしておくのも気分がよくないので、改めて探してみた。
 あった、見つけた、アン、ポン、タンが!

 冒頭に掲げたように、いずれの町も紋章を持っている。日本に家紋があるように、フランス、いやヨーロッパ各国にも紋章がある。歴史の古い国々には意外な共通点があるものだ。
 所在地など、調べた事柄を書いておこう。

 まずは、アン。フランス語では Ham と書く。フランス語では "H" を発音しないので、ハンではなく、アンとなる。綴りが分れば調べもつけやすい。
 ピカルディー地方圏、ソム県とエーヌ県の境界近くにある。パリの北東、サン=カンタンの南西でソム川沿いの町。

 領主はアン家で、最古の当主はエラール1世 Erard 1er。写真の紋章は1177年に用例があるという、由緒正しいもの。
 元々のアン城はとうに失われているが、13世紀に再建され、15世紀には主塔(donjon)が建設された。いまもアン要塞として残っている。スペインに占領されたりした後、アンリ4世 Henri IV 時代にフランスの手に戻る。

 やがて、国家の監獄としての役を果たすようになる。ここに留め置かれた有名人としては、皇帝ナポレオン1世 Napoleon 1er の甥、ルイ= ナポレオン・ボナパルトLouis-Napoleon Bonaparte 。後の皇帝ナポレオン3世 Napoleon IIIがいる。

 ポン Pons があるのは、ポワトゥー・シャラント地方圏、シャラント=マリティム県。毎年7月、フランス語圏のアーティストたちのフェスティヴァル、フランコフォリー Francofolies が開催されるラ・ロシェル La Rochelle の南東90キロにある。また、ワインで名高いボルドーの北83キロにも当たる。

 地名はラテン語のポンテス Pontes(橋)から来ている。スーニュ川に架けられた橋を指したものだろう。
 中世初期にはポントゥス Pontus、中世を通じてポンテム Pontem、14世紀からはポンツ Pontz などと呼ばれた。
 紋章の真ん中の絵柄は、当時の領主が持っていた武器に関係があるものと考えられているそうだ。

 タンのスペリングは Thann。アルザス地方圏、ホー=ラン県にある。町の名前はドイツ語のモミ(Tanne)に由来する。紋章の右にちゃんとそのモミがデザインされていることからも明らかだ。
 この町にも15世紀くらいからの記録が残されている。

 アルザスはドイツと国境を接している。1941年8月1日、第一次世界大戦が宣戦布告された時、アルザスはドイツ領だった。7日にフランス軍によって解放される。しかし激しい戦闘は続き、アルザス全土がフランスの手に戻るにはさらに4年待たねばならなかった。

 思い切り駆け足で、アン、ポン、タンのプロフィルを眺めてみた。たったこれだけの概観でも、それぞれに長い歴史があることが垣間見える。攻め寄せてくる外敵や厳しい自然と戦いながら、人々は毎日の暮らしを築いてきた。

 3つの町の名前を集めて、「アンポンタン」と笑ってみるのも面白い。笑いは大切だ。「笑う門には福来る」と言うくらいだから。
 でも、物事を笑いのネタにするだけで終わらせてしまっていいんだろうか。

 言うまでもなく、人にも町にも、国にも歴史がある。町の名の語呂合わせで笑った後、少しはその背景にも思いを致してみたらどうだろう。こちらが歴史に疎い安本丹(あんぽんたん)と呼ばれないためにも。

「捜す者は見つける」  1月6日(水)
2010/01/06


〔写真:フランス南西部、ミディ=ピレネー地域圏ジェール県にある"Condom" の紋章 ♪写真をクリックすると拡大されます〕


 インパクトのある見出しを見つけた。
 「和む マルデアホへの旅 埼玉の会社員が出版」(1月4日付読売新聞夕刊)
 世界各地に点在する、珍妙なる地名について書かれた本が出たというもの。

 本のタイトルは『世界でもっとも阿呆な旅』(幻冬舎)。
 著者の安居良基(あんきょ よしもと)さんが、自著のページを開く写真も記事に添えられていた。そのページには、バヌアツ共和国の「エロマンガ島」の文字が見え、ちょいと笑える。
 「あんきょのホームページ」http://ankyo.at.infoseek.co.jp/index.html 
に掲載された記事を基にした本なのだそうだ。

 日本語として聞くとおかしな意味になってしまう、そんな響きを持った地名が確かに存在する。
 記事によると、安居さんは慶応大学生だった1996年3月、オランダのとある風変わりな名前の街に立ち寄った。その名は、“スケベニンゲン”!?

 安居さんのサイトにもこの街の紹介が出ている。綴りは"Scheveningen" 。「オランダの海岸部、ハーグ近郊にある。現地読みだと実は、スヘフェニンヘンと読みます」との説明もある。

 この地名、確か深田祐介さんの本にも紹介されていたのを覚えている。
 30年ほど前、初めて目にした時には吹き出してしまった。いったい、どんな人たちが住んでるんだろう? 次いで、世のなかは広いもんだなぁ、と思い直したものだ。

 安居さんは丹念に面白地名を調べるだけでなく、実際に現地に足を運び、目で見て書いている。日本全国にある「安居」の文字のつく土地ももちろん、すべて踏査済み。 大手電機メーカーで半導体の研究開発に従事している安居さん、仕事に追われる日々を送っているだろうに、コツコツと調査にいそしんでもいる。

 おそらくは、遊び心を発揮して楽しんでいるものと想像される。とはいえ、その情熱たるや生半可なものではない。気になること、好きなことを徹底して追求する安居さんに拍手!

 フランス語の諺に、「捜す者は見つける」"Qui cherche trouve" というのがある。なくし物をしても熱心に捜せば見つかる、というのが元々の意味。
 そこから、誠意をこめて努力すれば必ず報われる、との意味にも使われるようになった。
 安居さんの努力は、本として出版されることで報われたと言えるだろう。

 “スケベニンゲン”を受けてジョークついでに言えば、フランス南西部ミディ=ピレネー地域圏ジェール県には、“コンドーム”"Condom" という名の町があった。鼻母音なので、“コンドン”と発音するのが正しいけれども。

 この名称、ゴム製品と関係があるという説、ないという説がある。いずれにしても、あちらは発明者の名前を採ったようだ。
 むしろコンドンは、ヴァン・ド・ペイ・デ・コート=デュ=コンドモワ Vin de pays des Cotes-du-Condomois という地酒や、アルマニャックの名産地として知られている。
 冒頭に掲げたのは、この町の紋章。

 さらにインターネットの大洋を泳ぎまわってみると、フランスには他にも面白い地名があるという報告に行き当たった。
 “アン”、“ポン”、“タン”!?
 この3カ所、「アンはパリ北東、ポンは北西、タンは北北西」に位置するという。 パリから1泊2日で回れるのだとか。
(出典:nobupusuの思い http://blogs.yahoo.co.jp/nobupusu/6027888.html

 ざっとフランスの地図を眺めてみたけれど、それぞれの地名の原語表記が分らず、場所を確認できていない。

 また、パリには「アンポンタン」という名前の大衆居酒屋がある、との情報もネットにあった。こちらもスペリング未確認だけど、ほんとにあるなら訪ねてみたいものだ。

 「捜す者は見つける」と先に書いた。
 捜したけれど、アンもポンもタンも見つからない… 安居さんほどの努力をしていないからか。それとも、僕が“アンポンタン”だからかなぁ…

「シャンソンの日」ってご存知でしたか?  1月4日(月)
2010/01/04
〔写真:「シャンソンの日」をイメージしたイラスト。「今日は何の日?〜記念日イラスト素材〜記念日・祝日の無料イラスト/誕生花」 というサイトから無料で使用できる。URL→ http://www.kinenbi.rdy.jp/today/ 〕


 「灯台下暗し」というのか、はたまた迂闊だったと言うべきなのだろうか。これまで知らなかったことがある。
 12月29日は、「シャンソンの日」だった!
 ご存知でしたか?

 昨年暮、何気なく記念日関連のウェブサイトを見ていたらこの単語に出くわした。
「今日は何の日〜毎日が記念日〜」http://www.nnh.to/ の12月29日欄にこうある。
「1990(平成2)年のこの日、銀座のシャンソン喫茶の老舗「銀巴里」が閉店した」。

 そうか、そうだったのか。シャンソン評論家を名乗っていながら、とんと気づかなかったとは情けない。
 ものは試しと思い立ち、念のために別のサイトも調べてみた。

 無料百科事典《Wikipedia》にも、上記とほとんど同じ記述がある。これだけじゃつまらない。他を当たった。

 OCN TODAY http://ocntoday.blogzine.jp/ の12月29日の項には、もう少しいろいろと書いてある。
 オリヴィエ・ダアン監督による伝記映画『エディット・ピアフ 愛の讃歌』(原題は《La vie en rose》)についても言及している。

 この映画、伝記とは言いながら必ずしも時系列どおりにストーリーが進んで行かない。あえて過去と現在のシーンをランダムに並べてある。そのことについて、このサイトの主宰者は「多少いらだちを覚える」と指摘する。さらに、「残念ながら涙腺を激しく刺激するような映画とはいいきれない」とも。

 正直に言ってこの映画を初めて観た時、ピアフの生涯についてこれまで何度かライナノートを書いたことのある僕も少し戸惑った。とはいえ、いらだちを覚えるまでには至らなかった。

 むしろ、現在という時のなかに折り畳まれた、過去の瞬間の数々を描き出すための手法として興味深いものを感じた。
 実際、いまという時を生きていながら、過ぎ去った日々を鮮烈に思い出すというのは誰しもよく経験するところではないだろうか。

 OCN TODAY の記述者は、ピアフのレパートリー「愛の讃歌」"Hymne a l'amour" の日本語ヴァージョンについても次のようにツッコミを入れる。
 「ただしこれは人前で歌うにはちょっと恥ずかしい歌詞かもしれない」。

 う〜ん、この御仁、シャンソンがあまりお好きではないのだろうか。
 まぁ、確かに、岩谷時子さんによる「あなたの燃える手で〜」という訳詞で猫も杓子も歌うのもいかがなものかとも思うけれども…

 それにしても、「シャンソンの日」は誰がどのように決めたんだろう。
 その経緯はよく分らない。いずれにしても、<銀巴里>とそこに出演していた歌手たちを愛する人が関わっていると想像される。
 この記念日をきっかけに、シャンソンの広い世界に興味を持つ人が増えてくれれば、いまは亡き<銀巴里>社長・作本正五朗さんも喜んでくださることだろう。

 「シャンソンの日」に関連する、もうひとつのサイトも見つけた。
 「今日は何の日?〜記念日イラスト素材〜記念日・祝日の無料イラスト/誕生花」。
 http://www.kinenbi.rdy.jp/today/

 冒頭に掲げた無料イラストが自由にダウンロードできる。白黒、モノクロ、カラー3種類があるのでみなさんもご自分のサイトに使用してはいかが?

さすがアズナヴール、言うことがいいねぇ(承前) 12月28日(月)
2009/12/28
〔25日(金)は当欄の更新日でしたが、一日中、年賀状書きに追われてしまったため、書く時間を取れなかったことをお詫びします。〕


 前回、本欄の冒頭に掲げたリベラシオン紙11月21日・22日号の写真を拡大してみていただきたい。
 シャルル・アズナヴールのポートレートの下方、普通なら被写体の名前が入って然るべき箇所にこうある。
 "Charme Aznavour" “シャルム・アズナヴール”

 そう、“魅惑のアズナヴール”とでも訳せる語呂合わせになっているのだ。
 インタヴューやリハーサルの折に間近で目のあたりにしたり、ステージを観ているとそう言いたくなる。ほんとに"chapeau bas"(シャポー バ:脱帽)したくなる、素晴らしい人物だ。

 歌手であると同時に作詞家であり、作曲も手がけるアズナヴール。作詞に関しても同紙に、ヴィクトル・ユゴー VIctor Hugo などの例を挙げて興味深いことを述べている。

2音綴(母音2つ)から成る詩句で始まる数行の詩句が、12音綴(母音12個)のアレクサンドラン数行になり、また2音綴に戻る、といった書き方。アズナヴールは歌詞におけるこうした「整然と規則正しい型」を重んじている、というのだ。
 確かに、彼の作品はフォルム(形式)が整っている。

 「テーマや考えの前にそうしたフォルムに注視する。その両方を手にした時、人はジョルジュ・ブラッサンス Georges Brassens になる」。
 なるほど、ブラッサンスもまた、きっちりとしたフォルムに則った書き方をしていた。

 さらにアズナヴールはこう続ける。
 「歌うことは誰にでも手の届くことだ。書くことは違う」。
 つくづく深い言葉だと思う。

 また、自分の作品が英語、イタリア語、ドイツ語、スペイン語、ロシア語に訳されて成功しているのは、翻訳者に対して要求が多いからだとも言っている。歌詞の内容をいい加減に変えることを許さないということだろう。
 日本のシャンソン好きとしては、アズナヴールの世界を見事な日本語に移し替えている古賀力さんにも触れてほしかったなぁ…

 記事のなかで意外に思える発言もあった。
 ひとつのメロディーのアイディアを思いつくと、それを iPhone に録音しておくのだそうだ。とはいえ、ダウンロードはしないという。

 彼はテクノロジーを手放しに礼讃しているわけではないのだ。現代人がこうした電気製品が1カ月故障したらどうするんだろうか、と問うている。電気釜が壊れてからというもの、圧力鍋で飯を炊いている僕としては、テクノロジーに溺れないアズナヴールの考え方に賛成だ。

 アズナヴールは楽譜出版社ラウル・ブルトン Raoul Breton の経営者でもある。同社が管理していたシャンソン・フランセーズの名曲の数々が散逸してしまうのを恐れて、創業者の没後に買い取ったのだった。

 リベラシオン紙とのインタヴュー中に連絡が入った。とあるドキュメンタリー番組が、パリに来たヒトラーの映像のバックにシャルル・トレネ Charles Trenet の「パリに帰りて」"Revoir Paris" を使いたいので許可を求めてきたという。トレネの楽曲の多くもラウル・ブルトン社が管理しているのだ。

 アズナヴールはその場でこの申し出をきっぱりと断った。
 「トレネが対独協力にひと役買ったと思わせてはならないから」。
 承諾すれば、楽曲使用料が転がり込むに違いない。しかし、そうしない。許せることと許せないことを截然と分けるアズナヴールのしっかりした考え方が貫き通されている。
 心から拍手を贈りたい。

 歌手としての振る舞い方と、人間としての生き方がイコールで結ばれている。シャンソン・フランセーズを歌う人間はこうあるべきだという姿を常に示し続けている。
 だからこそ、僕はシャルル・アズナヴールを敬愛してやまない。

 パリに行った友人のYasuに頼んだニュー・アルバムが楽しみだ。


  今年の「ひとりごと」の更新はこれをもってひととおりとさせていただきます。さて、引っ越しの後片付けを続けなきゃ。(いつ終わることやら、フゥ〜…)

 では、みなさん良いお年をお迎えください。

シュジー・ソリドールの特集番組を観た  12月21日(月)
2009/12/21
〔写真:アール・デコのグラフィック・デザイナー、ポール・コランによるシュジー・ソリドール フランスのレコード会社、パテ社のポスター〕

 (今日の原稿は前回の予告と異なります。リベラシオン紙のアズナヴールの記事については次回書きます。)

 19日(土)、BSジャパンの特集番組『世界で最も描かれた女 シュジー・ソリドール〜226人の画家はなぜ彼女を描いたのか〜』を観た。
 先日の本欄で紹介した時からぜひ観たいと思っていた番組だった。

 海の映像が、まず目を射た。
 南フランス、カーニュ=シュル=メール。ソリドールは亡くなるまでここに住んだ。
 そこの城にある美術館は地中海を見下ろして建つ。内部には、シュジー・ソリドールの肖像画が50点飾られている。

空は青い
海は緑色
少し
窓を開けたままにしておいて

Le ciel est bleu
La mer est verte
Laisse un peu
La fenetre ouverte

 1938年に録音された「寄港地」"Escale"(作詞:ジャン・マレーズ Jean Mareze 作曲:マルグリット・モノ Marguerite Monnot)の冒頭の語り。番組でもこの句が引用されていた。
 海や船乗りのシャンソンを多く歌ったシュジー・ソリドールの代名詞とも言えるこの曲、真っ先にに置いたのは頷ける。

 シュジーの生まれ故郷はサン=マロ。父方の家系は、シュルクフ Surcouf という海賊の一族に連なる。ロベール・シュルクフに仕えていた女性、ルイーズ・マリオンを母として1900年にシュジーは生まれる。しかし、父親は彼女を認知することはなかった。

 このことがシュジーのトラウマとならなかったとは考えにくい。
 「注目されること、見られること、認められること」。これが彼女の願望であり、すべての活動の源だったようだ。シュジーの伝記作者、マリー=エレーヌ・カルボネルさんもそう語っていた。

 カーニュ=シュル=メール城美術館に収蔵されたポートレートはかつて、シュジー・ソリドールが所有していたものだという。彼女の手元に置いておくという条件をつけて、画家たちに自分の姿を描かせたのだった。

 それらの絵は、シュジーがパリのバルザック通りで経営していたキャバレ<ラ・ヴィ・パリジェンヌ> La Vie Parisienne の壁を飾っていたもの。
 カーニュ=シュル=メールに居を移してから開いたキャバレでも、それらの絵に囲まれてステージに立った。

 キャバレでは、飲んだり食べたりする観客が歌手のすぐそばにいる。それがまた、「注目されること、見られること、認められること」を欲するシュジーには心地良かったのだろう。曲ごとに観客たちが発する称賛の声や溜め息、鳴り響く拍手を間近に聞き、生きていることの確かな手応えを感じたに違いない。

 自分の肖像画に見守られて歌うというのは、どんな気分がするものだろうか。かなりのナルシストでないと平然とはしていられないように想像する。
 これもまた、父親に認知されなかったことに起因する心の働きなのかもしれない。

 番組のなかでも実際に歌っているシーンがあった。まばゆいブロンド、背が高く、響きの良いアルトの声。すっきりと立って歌う姿、声、すべてに存在感がある。
 かねてからCDでは聴いていたけれど、映画『ギャルソンヌ』での出演シーンなどは観たことがなかったので興味津々だった。

 時代の最先端を歩いていた、シュジー・ソリドール。イヴォンヌ・プレモン・ダレとの同性愛関係も隠さなかった。当時の人々さぞは驚いたことだろう。
 タマラ・ド・レンピカの絵からも、二人の親密な間柄が想像される。イヴォンヌにせよ、レンピカにせよ、シュジーのうちに互いに相通じる何かを見出していたのではないだろうか。

 シャンソンの分野においても先駆けだった。
 たとえば「開いて」"Ouvre" の歌詞などは、1960年代になるまでラジオなどでは解禁されなかった。特に後半は実に官能的な内容なのだが、ソリドール自身の録音でもその箇所はカットされている。

 番組にはパリ在住の長南博文さんが登場した。しばらくご本人にお目にかかっていないので懐かしい。髪に白いものも交じっている。失礼な言い方になるかもしれないけれど、ずいぶんと落ち着いた雰囲気を醸し出していらっしゃる。
 天井まである棚から、シュジーの古いレコードを何枚も取り出した。そのうちの1枚を手回し蓄音器にかけて聴かせてくれた。

 番組のなかで、現代のパリでシャンソンをナマで聴ける店として、ポンピドゥーセンターにほど近い<エサイオン>Essaion が紹介されていた。
 3年前、友人のYasuと訪ねたこともあり、これまた懐かしい想いをした。あの時にはピニョとドゥポワ Pignot et Depoix の二人が、「歌でめぐるリヴ・ゴーシュ」"La Rive Gauche en chantannt" という演し物をやっていた。
 今回の番組では、女性歌手のアニック・シザリュク Annick Cyzaryuk が取材に応じていた。彼女ももっと日本でも知られていい実力派歌手だ。

 東京・赤坂の<バルバラ>に出演中のシャンソン歌手、友部裕子さんもインタヴューを受けていた。質の高いレパートリーを持つ友部さんだけあって、シュジー・ソリドールのシャンソンも十数曲歌っている。時代がどうあろうと、毅然としてみずからを保ち続けたシュジーに共感を覚えているように見受けられた。(友部さんもそうした女性歌手のひとりだと僕は思っているけれども。)

 “狂熱の時代”と呼ばれた1920年代、ラ・ギャルソンヌに代表されるように、これまでの価値観に抗して自分らしい生き方を志す女性たちがフランスに現われた。シュジー・ソリドールやココ・シャネルもそうした先駆者と考えられる。
 シュジーのシャンソンを聴きながら、この時代の持つ意味を振り返ってみるのも有益かもしれない。

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